「いやしと開放」 マルコによる福音書3:1~6

イサクの双子の兄、エサウはエドム人の先祖となりヘロデ大王につながります。ローマ帝国に信任を受けた彼の治世はダビデ王の繁栄に迫り、神殿修復、宮殿建設など大事業を行いましたが、その心は異教の神々、文化に向かっていたと言います。晩年、王位継承の混乱の中でイエス様の誕生が予告され、彼は、二歳以下の子どもたちの殺害を命じます。彼の死後第4の妻との子、アンティパスが家督を継ぎ、彼も不信仰と圧制の道を歩みます。ユダヤ教信仰は形骸化し、宗教指導者たちの支配の中にありました。そのような政治的、経済的、信仰的な行き詰まりの中、洗礼者ヨハネが現われます。彼は、罪の赦しを得させるために犠牲の捧げものではなく、悔い改めの洗礼(バプテスマ)、主なる神への立ち返りを宣べ伝えました(マルコ1:4)。そして、ヨハネがヘロデ・アンティパスの不道徳糾弾ゆえに捕らえられたことを知り、イエス様は立ち上がられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 イエス様は徴税人や罪人たちを責めることはなさいませんでした。むしろ、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(217)と、素直にイエス様を信じる者に、律法の束縛からの開放を与え、「いやし」をお与えになりました。当時、病気や障害は、神に従わず掟を守らぬゆえにもたらされる罪の裁きだと信じられていました。(レビ26:1625) 片手の萎えた人は病気によって罪人と定められ、仲間との交わりも絶たれていました。イエス様は、律法の善を行うこと、命を救うという目的を見落とし、形にこだわる者たちを怒って見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながらその人に言われました。「手を伸ばしなさい」

「いやし」は信仰のゴールではありません。とらわれから開放され、神の恵みの信仰に立つ生活者に変えられていくプロセスなのです。パウロは、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ8:29)とキリスト者のゴールを表現しました。10人の重い皮膚病の人たちがいやされた時、神を賛美するために戻って来たのはサマリア人ひとりでした(ルカ17:11)。共通の病気で10人仲良く暮していたのに、治ったら異邦人ということで仲間から差別を受けたようです。「手を伸ばす」ことはイエス様の言葉に素直に従って生きること、「讃美して生きること」です。主に委ねられない弱い私自身、悔い改め福音を信じて従っていく者となりたいです。

 

 

2011年7月31日 「いやしと開放」 マルコによる福音書3:1~6
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