使徒パウロは、生きる望みさえ失う苦しみに遭った時、頼りとしたものは自分ではなく、死者を復活させてくださる神だと語りました(18)。その手紙に先立って書かれた手紙の動機こそ、コリントのクリスチャンが救い主キリストではなく、人間の知恵や力に頼って生きている罪を正すことでした。パウロが正したのは、彼らの生活上の善悪ではなく、救いの原則を受け入れない体質に対するものでした。パウロは地上における限られた命を超えて、信じる瞬間から始まるキリストにある新しい命を語り、クリスチャンはキリストが用いられる手紙(34)であると表現しました。どう伝えるかも大切ですが、何を伝えるかが最も重要な問題です。そこに教派を超えたクリスチャンの霊的体質がかかっています。

 被災地に立って実感したことは、その圧倒的な自然の力と、人間の存在の小ささでした。そして、現地の人々が実際に起きた出来事の中に様々な思いをもって現に生活しておられることでした。「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。」(イザヤ40:7)とありますがその直後イザヤは「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」と続けます。私たちができることは被災地の方々や避難しておられる方々に寄り添い粘り強く忍耐をもって復興のために心を合わせて働くことだけなのだろうかと思わされました。しかし、事態が長期化深刻化し、人間の本質的な問題に及んでいることを目の当たりにして、クリスチャンには何をするにしても自分自身も立たなければならない土台があることを思わされました。それは、神が与えてくださった恵みです。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」(62、イザヤ49:8)と言い切る神の約束の言葉です。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:14)と主は言われます。

 パウロが苦難に遭ったのは、災害のせいでも、自業のせいでもありません。むしろ、この世から見れば愚かと言える十字架と復活のイエスの福音を無駄にしないため、福音の原則から受ける逆風の中に向かって行ったのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(2コリ129)。福音を聞いた今ここで働く力です。

 

 

2011年7月24日  「今、ここで」 コリントの信徒への手紙Ⅱ612
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