新約聖書でも最も多く、また初期に書かれた文書はパウロによるものでした。その中でもガラテヤ書はテサロニケ人への手紙に並ぶ最初期のものです。しかも、ガラテヤ書はローマ書と共にキリスト教信仰の根幹を成します。驚くことに宣教からそれ程時が経っていない時期、ガラテヤ地方の教会は間違った信仰に既にさらされていました。ガラテヤの教会に送られた手紙に込められた「怒り」の先には、彼が受けた自由を教会の人々に与えて止まない深い愛があります。同時に福音の原点を見失うことは、キリストの死が無意味になる(221)こと、信じる者すべての者たちの信仰も伝道も無駄となる(1コリント15:10)ことを意味します。「呪い」(1)という激しく尋常でない言葉を4度もパウロが使うのは信仰を与えられた者を霊的滅びから救う彼の必死さによります。

 「キリスト者の自由」は、 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(215) とあるように、神様の一方的な恵みによって与えられます。私たちが良い行いをすることや、逆に悪いことをしないことによって得られるものではありません。ガラテヤの教会に現れた反対者達は、ユダヤ教を背景に律法に従うことを救いの条件に加えます。割礼、食物規定などの律法の遵守。私たちも信仰生活の中で良い行いを救いの条件や目的としてしまう時、信仰生活の疲れ、律法の束縛に生きてしまいます。その自由は、他者を愛しきれない、受け入れきれない、他者に仕えきれない、自分自身の弱さを知ることに始まります。そして、イエス様が私たちのすべての欠けや足りなさを補い、私たちの罪を負って下さったことを信じるところから始まります。キリストが真の愛の実践を可能とする希望を与えてくださったのです(55)

 「キリスト者の自由」は、キリストが送ってくださった聖霊の導きによって、キリストにつながって生きることによって結ぶ実です。パウロは、自由を自分の目的のためではなく他者を愛する実践に用いる時、霊の「満足」を与えると言います(516)。ストレスとプレッシャーに満ちたこの世のあって、その解消には様々な手段が溢れています。パウロはそれを肉の業と呼びますが、それは一時しのぎで的外れな道に私たちを招きます。イエス様は、「わたしにつながっていなさい。・・わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4)と語られました。「自由」は目に見えませんが、福音の原理に生きる時、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という自由な人格の実を結んで行きます。 

2011年7月10日 『キリストにある自由の実』  ガラテヤ5:16~19 (過去メッセージのリンク)





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