創世記12章でアブラハムは神に命じられ、生まれ故郷父の家を離れて、神が示される地へ行き先を知らずに出ていきました。そして、奇跡の子イサクが与えられますが、神はアブラハムを試みられます。聖書に初めて「試す」という動詞が現れます。行き先を知らずに出ていくことも試練だと思いますが、おそらく旧約聖書で最大の信仰の試練が「自分の子を生贄として捧げる」ということに象徴されています。しかも、その命令は神の約束と矛盾します。祝福を受けるべき子孫が絶たれることを意味するからです。

 結果的に神の命じられるとおり、アブラハムはモリヤの山に独子イサクと共に登り、彼を捧げようとしました。しかし、神がそれを止められました。その行為こそが、彼が神を畏れる者であることの証明となりました。

 「主の山に、備えあり。」 信仰は私たちの側から出るものではなく、神に起源があり、神を信頼し寄り頼んで生きることを示していると言えます。アブラハムが強い信仰を持っていたから、祈りの力があったから神の祝福があったのではありません。彼はただ「主の言葉に従って出て行った」だけでした。子孫への祝福を信じつつも子どもが無いアブラハムは奴隷ハガルによって子どもを得ますが、妻サラから生まれる子からという神の約束は変わりませんでした。

 「備える」とは前もって「見る」とか「分る・理解する」という意味で、前もって必要に備えるという意味でもあります。私たちは見えるものを確認し、確かめてから信じることを信仰だと勘違いしているところがあります。しかし、信仰は神には間違いがない、神は全てを知って全てを行われることを信じることです。

 モリヤの地は、彼の子孫ソロモンが神殿を建築した山エルサレム(歴代下31)、アブラハムの子孫が祝福を受け継ぐ基となる地でした。しかし、その子孫によって神の御子キリストが苦難に遭われた地でもあります。

 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(2216)神は、独り子イエスを救うことなく、世の救いのために十字架に見捨てられました。血筋による祝福(自分の力や努力、律法の行いによって)の継承ではなく、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため。」(ヨハネ3:16)と伝えられるキリストを信じることによって私たちは誰でも祝福の備えを受けたアブラハムの子孫なのです。

2011年7月3日 『主の山に、備えあり』  創世記22:1~19 (過去メッセージのリンク)





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