一般にもよく知られている「バベルの塔」は天地創造の最後の物語です。そして散らされていった人々の中から始まる民族の信仰の歴史に移ります。バベルの塔のテーマは「何故世界には多くの言語があるのか?」という問いへの答えですが、焦点は別にあります。

「神様を中心とし、神様との交わりの中に生きるために」

彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合い、石の代わりにれんがを、しっくいの変わりにアスファルトを用いた、とあります。それは人々の移住に伴う生活手段や材料、精神生活の基盤の変化も象徴しているとも言えます。人々が環境や価値観の違う土地に移った時、頼りとしたのは神様ではなく自分の力や団結力でした。神無しに一致することはこの世にあって自らが小さな神となっていくことで、際限なく自分たちのために、自分たちの力によって世界を作り上げていくことになります。「善悪を知る木の実」を食べた人間は、恵みとして与えられた能力や資源を自分中心の判断で用い発展させ、神にも迫る文明や技術を積み上げて来たのかも知れません。今、私たちの基盤を神様に置いて生きることが求められています。

 「互いの違いを認め、多様性を受け入れて生きるために」

「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」人間にとって不安なのは孤独です。だから私たちは集まることを求めます。しかし、人間の力によって一致しようとすると「排他」(門を閉ざし自己保身する)や「同化」(受け入れるが異質を無くし包括することや融和させようとする)、そして「多元」(約束、共通のことがらを守るなら異質のままでよいと考える)などの反応があります。今、世界はグローバル化し一致することの大切さに気付き始めていますが、対立(民族文化的、宗教的、経済的etc.)の大きさも味わっています。神が言語を混乱させて人を散らされたことには、神による私たちの関係回復と一致への深い配慮を私は感じます。「多からなる一つ」は人類の永遠の課題だと思いますが、神はペンテコステ(聖霊降臨日)において、神主導の一致の道を示されました。キリストによってもたらされた神との断絶の回復、十字架に死に復活された主を信じることによって始まる新しい世界の創造がそこにはあります。 

2011年6月5日「平和の言葉」   創世記11:1~9  (過去メッセージのリンク)





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