東日本大震災発生から3ヶ月が過ぎました。広範囲、多岐にわたる性質の違う被害からの復興には困難があります。あの大惨事を目の当たりにした人々と、イエス様のご受難が重なって見えます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか・・の意)」(マルコ15:34)とイエス様は十字架上にて大声で叫び、息を引き取られました。ある神学者は、その叫びは絶望の極みの中にあっても父なる神を信じて嘆く、イエスの信仰の叫びと表現しました。イエス様の苦しみは、鍋のどん底の裏側にまで至った極みであり、「成し遂げられた(完了、支払い終えるの意)」(ヨハネ19:30)との言葉にあるとおり、救いの完成、負債の完済を意味します。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)とある通り、苦しみは決して罪に対する神の罰ではなく、神が共にいてくださるしるしです。キリストは全ての罪を清算されました。今は訳がわからなくとも神は絶対に見放すことも見捨てることもないという信頼は神の無条件の愛に基き、キリストと神との信頼関係に見られるものです。

 イエス様の遺言は、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)というものでした。2000年前の人々の苦悩に神様が与えてくださったものはキリストにある救いと永遠の命です。同じように、意味の分からない災害や試練の中で、体は生きていても魂が死んだかのようになってしまう今の私たちにもイエス様が与えてくださるのは同じ約束であり、「神との信頼関係」です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(173)「永遠」とは時間に束縛されないということです。死んだ後に与えられるものではなく、苦しみのただ中に神が決してあなたを見捨てず置き去りにはしない(ヘブライ13:5)という約束を「今」実現してくださることです。

 イエス様の召天後50日(ペンテコステ)を経て、約束の聖霊が信じる者たちに注がれました。その時、「死は終わりではなく、イエスにあって永遠の命への門」となりました。だから、私たちにはイエス様にあって神様を信じ、その約束と秩序の中に生き、希望を持ち、与えられた命と他者との関係に生きる道ができました。

2011年6月12日 「伝えたいこと」 ヨハネによる福音書17:1~5  (過去メッセージのリンク)





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