「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」

キリストを信じて生きることは、主にある、「ところが・・」の世界に生きることです。新約聖書には「ところが」という接続助詞が100回ほど(訳により80140回)使われています。それは、予想に反した出来事が起きたことを表しています。その最たるものは、主の復活です。イエス様は弟子たちにも見捨てられ、罪なき身で殺され、墓に葬られてしまいました。ところが、墓に向かう女性たちの心配をよそに、神は墓石を既に脇に転がし、イエス様を復活させておられました。そして、イエス様はご自身を裏切った弟子たちに仕返しなさるどころか、彼らに平安を与え言われました、「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」(マルコ1615)。私たちの思いのなお先にイエス様は行かれます。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という主の祈りは、想定外の出来事の中にあっても主にある「ところが・・」の可能性と希望が私たちにあることを教えます。だから、「今日、御声を聞いたなら・・心をかたくなにしてはならない」(ヘグライ3:7)、そしていつも喜び、絶えず祈り、感謝して良いのです。

キリストを信じて生きることは主に目を開けていただき、心燃えて生きることです。イエス様の死後、弟子たちの絶望は彼らの心をかたくなにするほど深かったに違いありません。ルカ福音書(2413)によれば、二人の弟子は失意の中エマオという村に向かっていたようです。マリアたちの証言を聞いていながら彼らの心はまだ閉ざされたままでした。しかし、主が別の姿で現われ、御自身のことを聖書全体から証し食事を共にされた時、二人の目は開けました。イエス様は、耳が聞こえず舌の回らない人を、「エッファタ」という言葉で癒されました。癒された人もそれを目撃した人々も口止めされればされるほど、イエス様のことを言い広めたと記されています(マルコ7:31)。今、生き辛さを感じている人は多いと聞きます。取り巻く状況や捨て難い重荷はあるかもしれません。しかし、自分の正直な思いを携えて、主の前に立つ時、私たちの魂に向けて主は「開け」と命じて下さいます。そして、私たちは主に立ち返るを得ます。「主ご自身が、あなたとともに進まれる」からです。申命316

   2011年5月1日  <巻頭のことば>「なお先へ」 マルコによる福音書16:12~13




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