2011年4月24日

<巻頭のことば>「復興と復活」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:7~18


昔、ある作家が「別れは慌ただしいくらいがちょうどいい。」と意味深長なことを書いていました。しかし、東日本大震災では大地震による直接の被害とともに、その後押し寄せた大津波によって多くの人々に突然の別れがもたらされました。また、原発被災が重大事故を招き、多くの人々が強制避難となり、避難地から新たな避難地へと互いに別れを惜しむ間も無く散らされている状態です。翻弄される出来事の中で、私たちが願ってやまないことはそれでも「復興」へと向かうことです。

イエス様は、慌ただしく捕らえられ、訴えられ、十字架につけられました(マルコ15章)。しかし、福音書は驚くべきことを告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ16:6)」それは、教会が歴史の中で作り上げた「事実」ではなく、「復活の事実」そのものが教会を作ってきた証言です。使徒パウロは、「宣教というおろかな手段によって信じる者を救おうとお考えになった(1コリント1:21)」と、救いの先駆けが「福音」であることを記しました。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(1コリント15:14)」と、信仰が復活によることを語ります。パウロは、人間には愚かとしか思えない、キリストの復活の福音を受け入れる時、私たちも復活すると約束します。(2コリント4:14)

「復興」それは、衰え失ったものを再び取り戻し、回復していくことです。しかし、私たちに取り戻せないものがあります。それは「命」です。「命」は人間の力では復興することはできません。しかし、「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」と言われるイエス・キリストを私たちの滅びていく土の器の中に受け入れることによって「復活の命」に生きる者となります。困難をものともせず、元にもどせないものを回復する力が、主イエスの復活にはあります。珍しく、イエス様が弟子たちをとがめられたことがあります。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからです。(マルコ16:14) 復興に向かう日本が福音に応えることを祈ります。