2011年3月20日


慰めと希望とを」 コリント人への手紙Ⅱ1:3~7


「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」

3月11日に発生した東北関東大震災に関わるすべてのことについて祈りましょう。今回の震災によって私たちは三つの土台が揺るがされています。1.社会生活の土台。2.人間関係や心の土台。そして、3.霊的な魂の拠り所、信仰の土台があります。しかし、どの土台も支えて下さるのは神様です。

危機的状況で私達に必要なものは「慰め」と「希望」です。物心両面で私たちは今互いに助け合っていく必要があります。阪神淡路大震災復興の時には、社会が元々抱えていた問題が明らかにされ、危機管理や組織や制度のあり方が問われました。しかし、一定の復旧後知らされたのは、そのようなあり方よりも人と人との関わりと、そこにおける想像力こそが最も大切だったということでした。霊的な魂の拠り所は、苦難のとき、必ずいてくださるとの神の約束(詩編46:2)です。神様からの慰めをいただき、艱難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、品性が希望を生むとのパウロの言葉(ローマ5:3)を信じて参りたいものです。段階的、各分野での組織的支援活動が必要です。そのような中、私たちも、揺らぐことのない神様との折り目正しい関係(聖書における正義)を求め、どのような状況の中にあっても共におられる慰め主キリストを信じる信仰に立って隣人とつながって行きたいと願います。

震災被害とは別に、福島原発事故を通して私たちは悔い改めなければならない領域があります。原発による電力は発電所地域住民、多くの被爆労働者の犠牲の上に成り立っています。電力会社に功罪があり、責任は重いものがありますが、その根底に私たち一人一人の無知、無関心も含む、欲望の罪が隠されているのではないでしょうか?今、私たちは未曾有の災害に直面し、その問題と向き合うことも必要です。「神がいるならどうしてこのようなことが起こるのか?」という問いが多く聞かれますが、逆に神様が私たちに問いかけておられはしないでしょうか?

「神よ、変えることのできるものを変える勇気と、変えることのできないものを受け入れる心の静けさと、その両者とを見分ける知恵とを我らに与えたまえ。」(ラインホールド・ニーバー)の祈りは、主イエスの「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)との祈りを科学万能の時代に生きる私たちに投げかけているようです。