2011年2月6日

「草上の奇跡」 ヨハネによる福音書6115

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ69

今日の科学の時代に、2000年前の奇跡の物語はどのような価値を持っているでしょうか?人々がイエスを追ったのは、イエスが病人たちになさったしるしを見たからだと書かれています。「人は食べるために生きる」のか「生きるために食べるのか」といういつの時代にも変わらぬ議論があります。イエスのお答えは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4、申命8:3)でした。社会では様々な生きるための制度や組織、施設が必要です。しかし、それを調えるだけで人は満たされるのでしょうか?箴言に「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(29:18)とあるように、霊のパン、神の言葉が信仰者には必要です。信仰者には、神がそのすべての所有者であり、神が私たちの必要を満たしてくださる方であるという価値観がまず必要とされます。そこから生活や人生の優先順位が整うのだと聖書は語ります。少年が自分の大切なパンと魚を差し出した時、5000人以上の人々にとっては無きに等しかった糧が皆を満たしたばかりか、差し出したものより多くあまりが出たという現実を生みました。

ヨハネの言う「しるし」は、奇跡そのものではなく、イエスが「命のパン」であり、奇跡はそれを証明する業であったということです(6:35)。イエスは「天から下って来た生きたパン、これを食べる者は死なない」(650)。それが福音です。少年の「神への信頼」のしるしであるパンと魚をイエスが「感謝」し手で裂かれたら、皆が欲しい分だけ食べあまりが出るという奇跡を生みました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(653)。体を支える糧をさえ備えてくださるイエスは、信仰により霊の命に永遠をもたらす方です。草上における5000人の給食の奇跡は、その後イエスが成された「罪の贖いと復活」を象徴し、それを信じる者が信仰の結果である魂の救いを得ていること(1fペトロ19)を示していると言えます。日々の生きる糧はもとより、受験や就職や結婚、子育て、老後を生きること、どれもが難しい大事業です。しかし、主を信じ捧げる具体的な生活はその事業を成功に導くと私は信じます。

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