2011年1月23日

「人を建てる礼拝」 列王記上8:27~29


教会は、一人の人が礼拝する神と出会い、その神を信じる者たちと共に礼拝によって育てられ、礼拝によって建てられていく共同体です。イスラエルの信仰の父、アブラハムを召し出した神は、ついに王ダビデからその子ソロモンに至って神殿に祭られることになりました。神殿を建設し、契約の箱を安置したソロモンは「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も天の天もあなたをお納めすることができません。」と祈りました。大切なのは神殿や神殿を建設することそのものではなく、「わたしの名をとどめる」と言われた場所、祈りを聞いてくださる場所に居てくださる神、約束を守ってくださる神ご自身と、その神を信頼することです(829)

教会は、「わたしはあってある者」と言われる神の名のもとに集い、この世のものでありながら、この世に属さずに生きることを「礼拝」という形で現す共同体です。そして、神を知らなかった人々が神に出会い、礼拝する者に変えられていくことを共に喜ぶ共同体でもあります。「礼拝」には「民」の「仕事」という意味があり、神様を信じる者たちにとって礼拝は「公務」なのです。しかし、それはお仕着せの一方的務めではありません。変わりやすい自分と、うつろう世界とにあって、変わることのない神と共に生きようとする人間の献身なのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)その望んでいる事柄の本質は、自分が愛されていることではないでしょうか?事実、聖書は神が「御子をお与えになるほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)と証言します。その約束を信じることは恵みです。そこで初めて「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならない。」(ヘブル11:6)という公務が与えられます。類まれな知恵を神から授かったにも関わらず、ソロモンは神の約束に立ち続けるという公務を果たせませんでした。歴代誌下6章に同じソロモンの祈りが記録されています。それは、捕囚から帰還した記者が、悔い改めつつ記し直したイスラエルの礼拝の歴史書との解釈があります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(1コリント6:19) 教会堂を建てることは、キリストにあって礼拝を建て、礼拝によって集う人々の生活が神中心に建て直されていくためのものです。『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(2コリント6:16)と神は約束して下さいます。