2011年1月9日

 「神の恵みにより」 ガラテヤの信徒への手紙21921

キリスト教にとって、洗礼(私たちバプテスト派の教会はバプテスマ「浸礼」と言います)は大事な礼典です。しかし、よくある誤解は、バプテスマを受ければ救われるとかクリスチャンになれると思われることです。ペトロが、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(1ペトロ3:21)と言うように、バプテスマは救いの保証ではなく、むしろ逆に、「口でイエスは主であると告白し、神がイエスを復活させられたと信じるなら救われる」(ローマ10:9)からこそ起こる新しい人生への決意なのです。

バプテスマの水には不思議な力や罪を清める力はありません。使徒パウロは偉大な伝道者でしたが、その生涯でバプテスマを施したのは、コリントの会堂長だったクリスポ(使徒188)と同行者ガイオ(使徒1929)、及びギリシャでの初穂となったステファナの家の者たちだけでした。パウロにとって大事だったのは、ユダヤ人が割礼にこだわったように、バプテスマにこだわるのではなく、「愛の実践を伴う信仰」に生きること(ガラテヤ5:6)「新しく創造されること」(615)でした。誰もが聖人と認めたマザー・テレサは、自身を「罪深い人間」と呼び、キリストに仕えるように貧しい者と共に生きました。パウロは、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたは皆、キリストをその身に着たのです。」(3:27)と言います。一皮むけばどれほど醜い心が自分にあるか私は知っています。「義人は一人もいない」(ローマ)312との言葉に私は安堵しました。それは、偽善者は自分だけではないと言い訳できるからではなく、はっきりと私は神の前に罪人で、神の恵みによって、どうしても救われる必要のある者だと知った安堵感、そして本当に神の前に隠しようがない私の罪がキリストゆえに無きものとされた安堵感でした。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(テトス2:14)

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(220) 人には「こだわり」や「執着心」があります。それを無くしたら自分が無くなると思うほど大事なもの、自己愛の裏返しで大切なものだと私は思います。しかし、神は神であることに固執せず人となられた(フィリピ2:6)とパウロは言います。ご身分に執着せず、ご自身を捨てて示された神の愛を知るとき、人は長い旅に主が偽善でなく真実共にあることを味わうのだと私は思います。

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