2010年12月19日

「光の到来」 ヨハネによる福音書1:1~18

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」。(11-5

キリストの誕生日が祝われるようになったのは、キリスト教がローマ世界に広がった4~5世紀頃だと言われます。昼が一番短くなる「冬至」の祭り(太陽の光の復活を願い祝う儀式)の頃を、人を罪から救い復活されたイエス・キリストの誕生日と、新しく意味付けたのです。最近、諸外国では他宗教に配慮してかクリスマスという言葉を使わなくなってきました。返って日本の方が「クリスマス」をはじめとする外国の行事を祝うようになってきたのは不思議です。人を「苦しみ」から救うのはどの宗教も関心のあることです。しかし、「クリスマス」の光は、「苦しみ」や「暗闇」の中で輝くもの、私たちを罪と罪がもたらす悲惨から救うものであることを告げます。

「神が人となられた」ということは、神が私たちの生活のただ中、苦しみや暗闇の中に来られたということを示します。それは、この世の罪の現状に対する神の認識の高さ、その罪を救う愛の深さ、罪の犠牲となった人々への慈しみの広さがあり、神の謙遜を示すことだと私は思います。「苦しみから逃れようとすると人は苦しみ、苦しみに向き合うなら解決に導かれる」と言った人がいます。暗く貧しい家畜小屋に生まれた方は、私たちのすべての苦悩に向き合い共にいてくださる方です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1,2) と預言者は救い主の到来を光にたとえ、イエス様ご自身が、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われました。この世の苦悩を味わい、小さき者としての極みを生きたイエス様は、「暗闇」という救いに至る門を開く鍵を持った方です。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」(ヨハネの黙示録117-18)と言われる主は、私たちの生きている現実の中で輝いている方です。あなたにとって今年のクリスマスはどんな意味があるでしょうか?