2010年12月12日

 「預言の実現」 マタイによる福音書1:1~25

 日本語の四字熟語に「大願成就」という言葉がありますが、それは神仏の加護によって自分の大きな願いが叶えられることを言います。ユダヤ教にとっての大願成就は、神から選ばれたイスラエルの民を現状から救い出し、名誉を回復させる「救世主」が到来することで、「まだ」成就していないことでした。しかし、キリスト者にとっての大願成就とは、受胎告知を受けた乙女マリアが天使の「神にできないことは何一つない」との言葉に、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と答えた心の姿勢、信仰にあります。むしろ、キリスト者にとっての大願とは、自分の願いではなく救いをもたらす神の願いに生き、「既に」成就したところから始まると言うことができます。世の救いは私たちではなく、神の大願なのです。

 私たちは、苦しく辛い出来事に直面した時、神に願います。「主よ、主よ」と呼びます。私は、キリスト者になる前も自然に、知らぬ神に「神様」と祈り求めていました。しかし、旧約聖書を読んだ時「神の名をみだりに唱えてはなりません」(出エジプト20:7)とありました。そこで知ったことは、神は対話の神ということです。その前提は、神は、「あなたの神、奴隷の家から導き出した神」で、神と私との間に信頼関係が必要とされることでした。神の名を呼ぶ時、その方が、自分を救い出し、願いを叶える力ある方か、その方を本当に信頼しているか自分自身に問う必要があります。

イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と語られました。キリスト教もやはり最後は倫理道徳か、と思ってしまう言葉です。しかし、それは違います。「父の御心を行う」とは、小さな出来事から大きな出来事の中にまで神のご計画があることを信じることです。ヨセフは、婚約していたマリアに起きた不都合な出来事に対して人間的最善法ではなく、天使が命じたとおりマリアを受け入れ、信じたことを実行しました。信仰は双方向進行形です。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(1:22)とルカは記します。主の預言成就は、それがそのまま実現したということに留まらず、私たちの願いをはるかに超えて実現することです。インマヌエル(神は我々と共におられる)ことが既に私たちに実現しています。