2010年11月20日


「終末に生かされて」 黙示録1:1−3:22

 今回は7つの手紙から学びたいと思います。7つの手紙は当時の教会の現状と、現代の教会の現状を同時に語っています。それぞれの教会には神様からの励ましと警告の言葉が書かれています。それは終末に生きる私達に対する神様からのメッセージであり、大患難から私達を守りたいという神様の愛の現れだと感じます。

 エペソの教会は滞りなく全ての事が順調でした。しかし、一番大切な愛が無くなっていました(2:4)。 いつのまにか全てが義務化し、喜んで使える姿勢が薄くなったのかもしれません。 正しくても愛がなければ神様に喜ばれることはありません。

 スミルナの教会は大迫害を受け、貧しい中にありましたが、霊的に祝福されていました。主は彼らの困難な状況をご存じでした(2:9)。しかし、彼らが困難から直ちに解放される約束はなく、むしろ忍耐を命じられています(10節)。   

 ペルガモの教会も激しい迫害の下に置かれ、殉教者を出しました。信仰を保っていたことは賞賛されていますが、同時に「少しばかり非難すべきことがある」とも言われています(14節)。彼らの信仰が偶像礼拝化していました。 迫害に耐えていれば小さな罪を冒して良い訳ではないのです。

 テアテラの教会は認められてる点も多くありますが、イゼベルという人に関しては非難を受けています。彼女によって人々は不品行を行っていた様です。悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ入れると警告されています。 (2:18−23)

 サルデスの教会は霊的な無気力状態に陥っていたと思われます。 彼らの多くは 儀式、形式、伝統ばかりでみ霊とみ力の現れがなく、神様の言葉が全うされていない状態でした。この様な状態に対し、神様は「死んでいる(1節)」と言っています。

 フィラデルフィアの教会は堅く信仰に立っていると神様からの評価を得ています。力は乏しかったかもしれませんが、主のみ名を愛していました(3:8)。彼らは大患難をま逃れるとあります(10節)。この教会に対し、神様の叱責はありません。

 ラオデキアはこの世に対して妥協を重ねて来た教会です。経済的には富んでいましたが、霊的には滅んでいました(3:17)。 しかし、主はラオデキヤの現状を憂えてはいても、決して見放してはいません(3:19)。

スミルナフィラデルフィアの教会には励ましの言葉だけが与えられています。神様は愛する者を、励まし、時に叱責なさいます。私達は今どのような信仰に立って行動しているかを吟味し、主を愛し、主と共に生きる者でありたいと願います。