2010年11月14日


 「美しい目」 サムエル記上16:12~13


主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7

本日の礼拝は、子どもたちの成長を感謝する礼拝として守ります。両親にとっての喜びは、子どもたちの心身にわたる成長ですが、もう一つ大事なことは霊的成長です。イラエルの初代王サウロは美しい若者であったと言われ、ダビデも血色が良く、目は美しく、姿も立派であった(16:12)とあります。そうすると、上記の言葉に矛盾を感じ、やはり神様は外見を大切にし、能力や才能で人を判断されるのではと思ってしまいます。先日、16年間破られなかったイチローの年間最多安打を超え214本のヒットを放った阪神タイガースのマット・マートンさんの記事を読みました。彼は5歳の頃、イエス様を救い主として信じたいと思い、子ども心に神様と二人きりになれる静かな隠れた所に行ったそうです。そこは、テーブルの下だったと言います。微笑ましいです。メジャーリーグから日本に来る時、プライドや迷いがあった時、主に祈ったそうです。そして、日本でイエス様の証人となることを決心したと言います。「野球は、たとえどんなにうまくても、選手生命は必ずいつか終わりを迎えます。僕にとって最も大事なことはこの僕を造られた神の内にあるということです。」と彼は言います。そして、打席に立つ瞬間まで、できる限りの努力をすると言うのです。神様が見るものは純真な、神様を求める心です。

この世は単純ではありません。優しい祭司エリの息子たちは不良でしたが、大切な幼児期に親元から離されエリのもとで育ったサムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となりました(2:26)。立派な預言者となったサムエルの息子たちは不正の道を歩みましたが、彼が見つけた少年ダビデはイスラエルを代表する王となりました。因果応報と言われるこの世は、実は矛盾に満ちたものです。正しい人、努力した人は必ずしも報われず、世渡り上手で人をだましたり、うまく立ち回る人が栄えたりします。どうして家族の間でこんな問題が・・と思ってしまう出来事が起きてしまうことだってあります。何が原因なのだろうと悩んでしまいます。しかし、決してその理由は単純に解るものではありません。しかし、私たちは「美しい目」を持って生きることをあきらめなくても良いのです。主イエスは「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)と語られました。巨人ゴリアテを倒し、王国を統治し、ペリシテ、モアブ、エドムを制圧し王国を築いたダビデも不倫を犯し、家庭内の問題にも悩まされました。しかし、彼は自分の間違いを指摘されると率直に悔い改めました。「美しい目」それは、主に信頼する素直な目です。そんな目を持つ者に育ち合いたいものです。

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