2010年10月31日


「神の国の同労者」 マタイ福音書20:1~16


 
「秋の日はつるべ落とし」と言いますが、今年は秋という季節そのものがつるべ落としのように過ぎ去ろうとしています。イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(417)と語り、律法による救いの時代から、恵みによる救いの時代への変革の宣言をされました。 「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(コレヘト19)と、伝道者は語りましたが、イエス様が教えられたのは律法(神と人、人と人の間にある基準)の新しい解釈ではなく、本来の意味であり、労働の恵みと祝福です。山上の説教から見えて来る「天国」、そこは、この世の価値基準が逆転した世界のようです。そして、主イエスを信じた者や主イエスに集められた者たち「教会」は、天国の窓のような存在です。信じる者や教会が心を新たにしなければその違いを本人も周りの人も覗き知ることはできません。

 「天の国」をイエス様はさまざまなたとえ(蒔かれた種、土地に隠された宝、良い真珠、負債の決済など)を用いて表現されました。そして、「ぶどう園の労働者」のたとえに続きますが、天の国という所は「先にいる者が後になり、後の者が先になる。」(19302016)世界だということが分かります。それに先立つ1913節では、祝福を受けるために連れて来られた子どもたちを叱った弟子たちに向けて、イエス様は、「天の国はこのような者たちのものである」と、非生産、依存的、弱者と思える存在に与えられた世界だということが分かります。雨季を間近にひかえた慌しいぶどうの収穫の時に、働き人を雇うためにぶどう園の主人は出て行き、誰彼となくリクルートされるのです。

「天の国」には報酬という概念はありません。自分の食い扶持(ぶち)は自分で稼ぎ、働いた報酬はすべて自分の思い通りに使って当然なのがこの世の常識です。使徒パウロは第一コリント1012節で、終末に生きる私たちに向けて、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」と語りました。それは、私たちが食べていく生活上の試練の中で、神の側に立っていくことの大切さを語っています。ぶどう園の労働者はすべて天の国の報酬の法則、「恵み」に招かれた者たちです。そして、その日当の支払いは、「当然の報酬と思えない人」から始められるようです。

「天の国」は、イエス様を十字架にまで追いやった、「ねたみ」(2718)を無力とします。主イエスは、「目が濁って(ねたんで)いれば、全身が暗い。」(623)と言われます。信仰は、今、この時、自分の魂の目が澄んで(神の側に立ち、価値観を置いて)いるか、人生や毎日の生活において神を愛し求めているかが問われるところです。朝から酷暑の中一日労働した者たち、最後に少ししか働けなかった者たちと共に、ぶどう園の主人は収穫の喜び嬉しさを分かち合いたいと願っておられるのです。