2010年10月24日


 「それでもクリスチャン」 ローマの信徒への手紙31926 

 

  「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)、「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5:16)と勧めるパウロの手紙を好きな人は多いのですが、ローマの信徒への手紙は難解でわかりにくいという人が多いです。しかし、この手紙ほど、「喜び」と「喜んでいい理由」をわかりやすく記したものはありません。実に「福音」は「喜びの知らせ」そのものなのです。

 「全ての人は皆、罪の下にある。」(3:9) 極端と思われてしまうかも知れませんが、パウロはそれが人間の現実で誰もが認めざるを得ない事実だと言っています。「罪の下にある」とは、言い換えれば「罪に押さえつけられていて身動きができないでいる状態」と言っても過言ではありません。パウロは、「正しい人はいない。一人もいない。」(3:9)と念を押し、追い討ちをかけるように、「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(3:19)と言い切ります。善行を重ねた人も、悪行の限りを尽くした人も、「罪に操作されている」ことに変わりはなく、神の前に善人は一人もいない。それどころか、人は善行に励めば励むほど、自分が根っからの善人ではないことに気付かされる。良いものであるはずの「善行」の教えに押さえつけられて身動きできないでいる自分自身の存在を自覚させられるのではないでしょうか。「律法」を「善行」と直接言い換えることはできませんが、パウロは善い行いによってはだれ一人神の前で義とされない(人の前で義とされたとしても)と言うのです。

 「ところが今や」(3:21)、暗すぎるくらい暗い私たちの実情をこれでもかと示した後、パウロは、喜びの福音の到来を告げるのです。この喜びの知らせは、「律法」すなわち人間の「善行」とは関係なく与えられます。「でもそんなの関係ネエ!」というギャグが「救い」において通用してしまったのです。イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる「神の義」、そこには何の差別もありません。(3:22) 私たちは、「恵み」の元に移され、人の善行との比較の中に自分を見る必要が無くなりました。

喜べないことばかりが起こると感じてしまう今日この頃です。また、それを打ち消すように自分の力によってプラス思考、積極思考で物事をとらえ行動しようとするのが私たちです。しかし、信仰の要(かなめ)は、すべての人が不誠実であったとしても、パウロの言葉を借りれば、断じて「神は真実な方である」(3:4、26)ことを信じることです。「それでもクリスチャン?」と言われても、それだけは譲れないのです。弱くてだらしなくて、格好悪い。それでも救われていることを認めて生きる、そこに人間を源としない喜びが発生します。良い行いは、神の心意気に応えて神の喜びに共に生きることだと思います。