2010年10月17日


「こんな人許せますか」  マタイ福音書 2726

 
イエスが十字架にかかる時、多くの人が関わりました。ピラトは刑を宣告し、祭司や律法学者達はそれを支持し、多くの群衆がゴルゴタへの道から十字架での死まで、好奇の目で見続けていたのです。

 十字架につけられる前に、イエスは鞭打たれました。鞭打ちの刑を行った者は、罪人を毎回同じように鞭打っていたのです。鞭打ちとは、今では信じられない残酷な刑執行の一つです。

彼らは仕事としてそれを行っていました。また、十字架刑の執行にあたる兵士たちもいました。彼らはイエスを激しく侮辱し、その衣服をくじを引いて分け合いました。それも彼らにとっては日常的な勤務の一つでありました。しかし、こうしたこれらの彼らの行為は、私たちにとって許しがたいものであり、憎しみさえ感じるものであります。

 最近、罪を糺す役割を担っている検察庁担当者の問題が明るみに出て、何人かが逮捕されるという事件が起きています。罪を糺すのではなく、それどころか罪をでっちあげてしまったものでした。無実の者が、権力ある者によって一方的に罪に陥れられることもあるという大変ショッキングな事件でした。

 全く無実のイエスは、鞭打たれ、侮辱され、釘打たれて十字架にかかりました。鞭打った者、衣服をくじ引きした兵士たち、周りで冷やかに見ていた群衆、私たちはこれらの人々、これらの行為を到底許すことができません。
そうした、彼らはいったいどうなったのでしょうか。

  十字架刑に関わった百人隊長や一緒にいた者たちは、十字架刑の後、「本当にこの人は神の子だった」と語りました。一緒に十字架についた強盗の一人は「イエスよ、あなたが御国にお出でになる時には、わたしを思い出して下さい」と告白しました。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたはきょう私と一緒に楽園にいる」と言われました。

そして、「あの人は、許せない、この人は許せない」と言っている、この私をも神様は、許して下さっているのです。十字架の許しは、私たちの想像や、思いをはるかに超えた素晴らしい愛の象徴です。神様は、どんな時も私たちを十字架の愛で許して下さっています