2010年10月3日

「更なる恵みを」  ヨハネによる福音書1:14~9
 

 「この世は自分が気づかないうちに恵みを渇望している。」と言われます。それは、他者から無条件に受け入れられたい、認めて欲しい、ほめて欲しい、そして赦してもらいたいという渇望ではないでしょうか?人は、自分の価値を知らず、無価値だと思う時、生きていられなくなります。ヨハネによる福音書は「霊的な福音書」と呼ばれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)との言葉は福音の要、聖書から取り去ることのできない言葉です。その本質は「恵み」 grace(語根は、喜ぶ、嬉しいという意味)です。恵みには、三つの要素があります。

第一に、神さまから一方的に贈り物として与えられるものだということ。使徒パウロは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:24)と言いました。「言(独り子イエス)は肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とあります。実力市場主義傾向のある日本では、自信を無くした人、生きる目的を持てない人、情熱を注げる対象を見つけられない人などが多くいます。自分自身を価値のない者と感じたり虚無感を持つ人々に、神の恵みは無条件に注がれます。受けるだけで良いのです。神は、私たちの努力や頑張りと引き換えにではなく一方的に与えて下さるという要素です。 

第二に、受けるに値しない者が無条件にもらえるものということ。今の日本の社会で起こっている犯罪や心痛める事件を神様の目から見ると恵みでない状態だと言った人がいます。どんな罪を犯したとしても、どんなに人に非難され、裁かれる人さえも受けられるもの、という要素です。

第三に、義「神の前に正しいもの、聖なるもの」とされること。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:24

教会に恵みがあるか?恵みが働いているか?恵みによって生かされているか?

(主の祈り)「祈りの種は天にまかれ、さかさまにはえて、地にしげり、しげりしげりてよき実を結び、また種となりて天にかえりゆくなり。」という八木重吉の詩があります。無条件に与えられ、無償で神の前に義とされる私たち、恵みによって救われ、恵みによって義の実を結ぶ者となりたいと願います。(フィリピ1:11)