2010年9月26日

「隔てを超えて」  ローマ人への手紙12:1~2
 本日の礼拝は、ユース・サンデーとして少年少女と青年が中心となり礼拝の各奉仕をいたします。教派によっては、少年少女が礼拝を司ることはありません。その中でバプテストは「わたしたちの上に立つのは神のみ」ということを大切にし「礼拝形式」さえもその上に置くことをせず、礼拝は「皆が共に」造り上げていくものという理解をしています。同じ連盟の教会でも、礼拝式はそれぞれに違い、その違いを大切にしています。その自由を今日、考える礼拝でありたいと思います。

 「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1) 「礼拝」はレイトゥルギアという言葉で、ラオス(民:人々)+エルゴン(業:務め)という合成語です。そして、「なすべき礼拝」という言葉はロギテイア(英語で言う論理、理屈に適った)+ラトレイア(礼拝者)という意味で使われています。礼拝者ですから、日曜クリスチャンに留まりません。そして、礼拝者は神の憐れみによって隔てを越えた者となります。礼拝には違った年代、価値観や考え方を持った人々が集います。賛美も高齢者と若者たちの好みは別れ、静かな礼拝を好む人もあば体を動かして賛美したい人もいます。祈りも、公の祈り(参加者を代表)を重視する礼拝、出席者が同時に声を出して皆で祈る礼拝もあります。礼拝は、多様な要素がありますが、個人のものではありません。そこで私たちの礼拝にとってな重要なことは、礼拝は神賛美であり、共に造り上げていくことです。「キリストはわたしたちの平和であり、二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊され・・。(エフェソ2:14)」とパウロは言いました。一週間のそれぞれの歩みの中に受けた神様からの恵みを持ち寄り感謝し賛美するために、喜びや悲しみをも献げるのが礼拝です。皆が共に造り上げていく礼拝、そしてその形さえ隔てを超えて話し合い学びつつ造り上げる礼拝としたいものです。

 「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・なさい」 「悔い改め」という言葉を教会ではよく使いますが、「向きを変えて元(神の方)にもどる」という理解があり、180度人生の歩みを変えましょうと言います。しかし、別の捕らえ方では。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国は見ることができない(ヨハネ3:3)」とイエス様が言われたように、180度どころか主イエスの救いを信じ、生まれ変わって360度向き直って生き始めることでもあります。年長者にも若者にとってもキリストは救い主であり、新しい命と礼拝を与える方であることを心に刻みます。