2010年9月19日

「主の物語」  申命記31:1~8


 「主の物語」  申命記31:1~8

 モーセ五書の最後の書物が「申命記」で、その意味するところは「律法の反復」すなわちイスラエルの歴史や戒めを繰り返し、繰り返して教えていくことです。モーセが民に繰り返し伝えたことは、神のことばであり、主の物語です。
「神のことばを守ること」は、つかの間の祝福です。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6:4~7) 両親は子どもの健やかな成長のため、危険や心の罠から守るために、繰り返し繰り返し子どもを戒め導きます。モーセは民に、「今日、主の戒めに従うなら祝福を得る」(11:27)と伝えました。パウロは、それはつかの間であれモーセの栄光に満ちた務めだったと言うのです(2コリント3:7)。彼は、たとえ神のことばを知らなくても、神のことばが意味することを自然に行えばその人自身が神のことばとなり、自らが神によって創造された者であることを後に知るようになると語ります(ローマ2:14)。神のことばに従うことを教えることは、神の前に子をひとり立ちさせることだと私は思います。

 「イエス・キリストへの信仰」はつかの間の祝福から永遠の祝福に至ることです。モーセが神のことばを伝えたことが栄光に満ちたことであるなら、十字架に示されたイエス・キリストによる罪の贖いと復活の福音を伝える務めは、なおさら栄光に満ちているとパウロは言います。荒野での40年、耐え忍んだのは民ではなく、神の民の行いを耐え忍んだ神ご自身だったとパウロは語ります(使徒13:18)。失いたくない自我を後生大事に守る私たちに比べ、神様はひとり子を差し出すことにより私たちを得て下さいました。自分の考え、価値観を絶対化し、キリストを通らないで祝福を受けようとする自分がいます。しかし、神はそんな弱い私のいたらなさを耐え忍んで、御子イエス・キリストにあって、私を赦し、義とし祝福し続けてくださっています。だからこそ、私は「主の恵み」と感謝できるし感謝し従っていいのです。
 「モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」(申命記34:7)とあります。人は寿命で死ぬ、務めが終わったら召されると考えます。しかし聖書は、モーセが「神には不義がない(ローマ9:14)」と信じたこと、彼は「主の物語」の列に加えられている(申命記32:50)ことを証しします。現実を恐れずうろたえず、共にいて見放すことのない方を中心に、生きる者となりたいです。