2010年9月12日

ナザレのイエスの御名」 使徒言行録3:1~16

  1~2節ペテロとヨハネは午後3時の祈りに宮に登って来た。ユダヤの人は、自分達の気分や状態によってではなく、毎日3回、決まった時間に祈っていた。彼らは生活習慣の中に神様との交わりがあるのではなく、神様中心に生活している。 美しの門の前には生まれつき足のきかない男が運ばれて来ていた。彼には、人と同じ事が出来ない辛さ、見下される辛さ、物乞いの辛さ、誰かが運んでくれなければ物乞いすらできず、人に頼って生きなければならない辛さなどがあった。しかし彼は門の前で、日々自分のできる事を精一杯やっていた。私達も彼のように最善を尽くして神様に従い、恥をかいても否定されてたとしても、伝道していく者でありたい。
 3~4節:足のきかない男がペテロとヨハネに施しを求めた時、2人は立ち止まり、男を見つめた。そして男に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」と言った。無学で無名な漁師の2人にあったのは、イエス・キリストである。2人は男に、イエス様とともに生きる生活と、主の癒しをあげようと言ったのである。

 「イエスの名」は、「イエス様の全ての力と権威」を意味する。私達の信仰の強さや能力ではなく、主がともにおられることを誇り、御名に信頼して神様の栄光をあらわす者でありたい(第1コリント4:7)。また、イエス様の名前がいかに権威あるものかを覚えたい。

 7~8節:ペテロが男の右手を取って立たせると、たちまち彼の足が強くなり、躍り上がって歩き出した。歩くことを諦めていた彼の喜びは、私達の想像以上のものであったに違いない。私達が諦めていても神様は私達のことを諦めることはない。すぐに祈りが答えられない時もあるが、神様を諦めるより、求め続ける人生の方が祝福される。求める時に信仰の戦いがあるが、私達は信仰をもってイエス様にすがり続ける者でありたい。
 8節に男は神様を賛美し、ペテロとヨハネと3人で宮に入って行ったとある。彼はすぐに癒された事の感謝をしたのである。1つ1つの事は神様が導いて下さっていると確信し、神様に感謝していく事が大切である。最後に、どんなに癒されても、奇跡を与えられても、問題が解決されたとしても、私達が神様から離れてしまったならば元も子もない。全ての主による癒しと奇跡、恵みが、神様と私達を深く繋げるものになるように祈りたい。