2010年9月5日

 「礼拝への招き」 詩編100:1~5

 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」(100:1-3)

 世界がグローバル(地球規模)になっていく今日この頃、すべてのものが多様化し、「世界の底が抜ける」とさえ言われる時代に私たちは生きています。国や民族によっては発展と成長の時代と言えるかもしれません。しかし、世界的に見れば人間の「欲」が限りなく開放される中で、人間と自然との関係が問われ、「平和」や「共存」ということを私たちの内と外とに向けて考えていく時代になったと言うこともできます。そのような中、私たちにとって「礼拝」とは何なのか、多様な時代に生きる私たちに詩編は時代を超えて語り歌い続けます。

礼拝は「神に、喜び賛美をもって招かれる」出来事です。「全地よ」という呼びかけは、被造物が共に礼拝者であることを物語っています。創世記1章によれば人間は大自然の創造に遅れ最後に造られた存在で、神の前に被造物の末席におかれるものです。しかし、「生命」としての私たち人間は、先頭に立って被造物と共に生きることの困難さにうめきながら生きている(ローマ8:22)存在です。肉体の「生命」について、人は一定の客観性と技術をもってコントロールできるようになりましたが、「いのち(霊)」についてはどうにもならない領域があります。

しかし、詩編はそのような中、礼拝の主体は「主なる神」であること、群れと私との「生命」と「いのち」を養ってくださるのは主であることを知らせます。イエス様はサマリヤの女に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネ4:23)」と、礼拝の主体が人や儀式、行いではなくご自身を通して与えられることを告げられました。自分の思い通りにならない現実生活の中で主が私たちの「生命」を養い、「いのち」が「喜び歌って」「感謝の歌をうたう」ようにして下さったのは神で、私たちはその主体的応答者とされているのです。

詩編は、主なる神の「恵みが永遠」であること、「慈しみが子孫にまで続く」と歌います。パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)」と言うように、「いのち」の問題には「いのち」で応えて生きる必要があります。キリストにある「新しいいのち」(ヨハネ3:7)を受け、多様な価値観や存在と出会い共存しながら、その喜びが先立つ信仰生活、主イエスと共に生きる生活を送りたいと願うものです。