2010年8月29日

 「和解のつとめ」コリントの信徒への手紙5:16~21

  本日の教会学校は、「沖縄戦に学ぶ」ということで沖縄の学童疎開について映像を交え戦争体験者のお話を聞くことと、「日米安保条約」をめぐって平和について考えます。疎開船、対馬丸撃沈により犠牲となった子どもたち、生き残った子どもたち、そして九州、台湾へと疎開した子どもたち、一般市民の家族親子が引き裂かれました。何よりも沖縄の人々は同じ家族と思っていた日本国に見捨てられ、今も「安全」の名の下に(非)合法的犠牲を強いられています。1948年にはようやく日本の支配から開放されたはずの朝鮮半島の人々もまた韓国と北朝鮮とに大国の勢力争いに巻き込まれる形で分断されました。歴史を知らないでいると想像力を無くしていくのだと私自身思います。分断された日本を、紛争の渦中にある日本を、私たちは現実感をもって想像できるでしょうか?

 先日、神奈川連合少年少女会(からし種の会)サマーキャンプが「マイホーム」をテーマに行われました。子どもたちと接していて感じたことは、そのままで「一緒にいる」ということを子どもたちが「ホーム」と感じていたということです。最も安全で自分らしく居られる場所、それが「家族」「家庭」です。しかし、戦争が世の中に無くなればそれで平和でないことや家族がそのままで居ればそれで幸せかというとそうでないことは皆体験的に知っています。また、信仰を持てばそれで苦しみが無くなるかと言うとそれも想像力に欠けることです。

ところが、パウロは神と人との和解が想像の世界ではなく、現実に「御子の死を通して」(ローマ5:10,コロサイ1:22)、十字架により(エフェソ2:16)、キリストの血によって(エフェソ2:13)もたらされたと語り、平和(罪がもう一つも数えられないこと)が訪れ続けていると語ります。「和解」には、「交換」という意味があり、神は御子「キリスト」と私たちの「罪」とを交換され、神は私たちの「罪の痛みと傷」をもらい、私たちは「神の栄光と財産」とをいただいたと言うのです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)新しいもの(2コリント5:17)は、天地創造と同じく神のことばより出て、和解のつとめ(おもてなしの心)を恵みとして与えると聖書は約束しています。平和をつくることは、イエス様によって神の子とされた「和解」の出来事をそれぞれの自分と他者との関係につなげていくということでもあると私は思います。