2010年8月22日

 「平和のつくりかた」創世記26:12~22


今年の8月は戦後65年、日韓併合100年、広島平和式典に初めて駐日米国大使が参列するなど、大きな節目迎えました。青葉キリスト教会でも、次週29日は、沖縄戦を通して、平和について学ぶときを持つことになっています。この8月、私たちは二度と戦争起こさないように決意し、「平和を実現する(マタイ5:9)」ものになるため、祈り、求めて過ごしていきたいと思います。

本日は創世記26章から3つの点をみていきたいと思います。

  私たちは、神様の一方的な愛を受けているにもかかわらず、神に背き、争いを繰り返します。
イサクの住む土地に飢饉が起こります。しかし神様から多くの祝福を受けたイサクは、多くの収穫を得ます。そのことをねたんだペリシテ人が、以前アブラハムが掘った井戸をことごとくふさいでしまいます。アブラハムの時代にも井戸の利権を求めて戦いが繰り返されました(創世記21章)。26章でも、イサクはふさがれた井戸を掘り直しますが、ペリシテ人がそれを奪おうと争います。人間はいつでも、同じ過ちを繰り返します。今も、多くの国、地域で争いが絶えません。

  しかし、イサクは争いに争いを持って報いず、主にしたがって歩みました。
イサクは、井戸を手放しその地を離れて、新たに井戸を掘ります。そこでもペリシテ人が奪い取りに来たので、そこから移ってさらに井戸を掘り当てます。それについてもまた、ペリシテ人との間に争いが起こるとその井戸を手放し、新しい場所に移動しては井戸を掘り続けました。その結果、とうとう争いがやんだのです。敵意に対し敵意で報いず、暴力に対し暴力で対抗せず、ただ、自分が必要とする命の水を求めて井戸を掘り続けた時、イサクは争い、敵意、暴力から自由になり、誰からも脅かされることのない「広い場所」(22節)を得たのです。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります(ローマ12:19)。」どのような艱難苦難が降りかかってきても、争いに争いを持って報いず、主に委ねていくことを主は求めておられます。

  「平和をつくりだす」ために私たちが出来ることを祈り求めていく。
井戸を掘り続けるイサクの物語は、敵意と戦争がうずまくこの世界、この時に生きる私たちに、何が大切かを教えてくれています。それは、敵意や暴力の応酬に荷担することなく、イサクのように非暴力の方法を用いて、しつこく、あきらめることなく、立場の違う者が共存できる在り方を探っていくことではないでしょうか。「平和をつくり出す人は幸いである(マタイ5:9口語訳)」といわれたイエスさまの言葉を心に刻み、平和をつくり出すために、私たちは何をすべきか祈り求めて生きたいと思います。