2010年8月15日

ご使用の前に」ガラテヤ書3:26~29

 
 紀元50年代前半に使徒パウロによって書かれたとされるこの手紙は、十字架の出来事の後、早くもその意味の取り違えが教会の中で起こっていたことを示します。それは、「福音」が福音でなくなっていったということで、本来「薬」であったものが「毒」となり始めたということです。薬には「ご使用の前に説明書を良く読んでからお使い下さい」と明記されていますが、「救い」の福音もそうです。
 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤ2:16) クリスチャンにとって信仰の決心をし、洗礼(バプテスマ)を受けた時の感激はそれぞれですが、私の場合、世界がまったく変わって見えました。しかし、時とともにその景色は元に戻っていきました。「イエス・キリストは私の中で一番、自分はキリストのようにならなければならない。」との暗黙の目標があったようです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(2:20) 世界が変わって見えたのは、キリストが恵みによって私の内に来てくださったからです。キリストになれるのはキリストだけです。大切なのは自分の力に頼るのではなく、キリストに頼り、古い自分に死に、新しく生まれ変わることです。「恵み」とは、不完全な者、罪なる者をこそ神はこよなく愛しておられるということです。
 20世紀後半にMissio Dei (神の宣教)という概念が生まれました。過去のキリスト教の歴史を顧み、教会主導の宣教を反省しつつ、「宣教を先導されるのは人ではなく主である」との視点に立つことを強調しました。それは、「クリスチャンでない人々を、未信者、まだ救われていない人々」と呼ぶことから「共に救いにあずかり喜び合う人々」と呼び、「伝道」を「救いを知らない人々に教えること」から「共に分かち合い、共に知らされていくこと、共に見つけに行くこと」に変えられることにつながります。伝道は、イエス・キリストの教えをむりやり着せることではなく、私たちの不完全さを覆い、苦しみを分かち合ってくださり、罪を負ってくださったキリストご自身を自ら受けることで、そこから私たちの間に何かが始まるということです。