2010年8月8日

「真夏のクリスマス」 イザヤ書9:5、6 (口語6、7節)

 65年前「長崎の鐘」(アンジェラスの鐘)として知られる浦上天主堂の鐘は被爆しながらも壊れずに残りました。その年のクリスマス、教会では鎮魂と平和への願いを込めてこの鐘を鳴らしました。また、自らも被爆し、重態になりながらも被災者の救護にあたった永井隆博士は終戦までの記録を随筆「長崎の鐘」に残しました。原爆で妻を亡くした彼は、原爆の悲惨さや平和への願いを綴るばかりでなく、無謀な戦争を起こした日本にも非があり、それを有形、無形で支援協力した自分たちにも非があることを指摘しました。

 国家には暴力を正当化できる権利を国民が与えています。同じ暴力でも、犯罪者がふるうものと、警察が防衛として行うものとでは意味が違います。一方では皆が認めず、一方では正当とみなします。また、裁判で有罪判決を受けた者への処罰はたとえ死刑であり、人殺しであっても裁く(執行する)方は罪に問われません。その錯覚の最たるものが「戦争」です。20世紀、自分たちの命や安全を守ってもらうために、人々が「国家」にその権利を渡した時、その錯覚の犠牲の多くは委託した市民や敵国とされた市民に向けられたのです。他人まかせで平和は実現し、命や安全は守られるのでしょうか?

 日本は戦後、その錯覚を体験した国として憲法において「交戦権」(戦争をする権利)を放棄しました。「昔はともかく、今の日本は戦争を起こすなど考えられない」そう思うかもしれません。しかし、今、日本は憲法9条を変えて「交戦権」をとりもどそうとする動きが既に浸透してきています。かつての日本のように、アメリカでの同時多発テロが起こった時、アメリカは犯罪者を取り締まる感覚で戦争を開始し、今までとはまったく違った形で正義の戦争を可能とし、日本をはじめ多くの国々もそれに支援協力しました。

 主イエスは、「平和を実現する(つくる)人は幸いである」(マタイ5:8)と語られました。守ろうとすればそこには争いが起こります。神様は、人間との平和を実現するために、ひとり子イエスをお与えになりました。主イエスは非暴力で平和を説かれましたが無抵抗ではありませんでした。「弱さの中に働く力」に委ね、「己の如く人を愛せよ」(マタイ19:19)との戒めの真の意味をもって抵抗し、その苦しみと死により平和を実現されました。主イエスは、悪の力に誘惑されることなく支援協力することなく、愛に生き、「罪」に死に、「義」として復活されたのです。戦争が風化していく中、暑い夏こそ日本にとってクリスマスに与えられた平和の子、イエス様の誕生を祝い、私たちの心に存在する暴力(見えるもの、見えざるもの)を愛する愛へと変えていきたいと願います。