2010年7月18日

 「生きている希望」 エレミヤ書29:11

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

「苦労は買ってでもしろ」などと昔は言われたものですが、自分の選択ではなく向こうからやって来たり、押し付けられたりする苦労は困ったものです。病気や災いを願う人などいません。思い通りになる人生は無い、それは誰もが同感するところではないでしょうか?しかし、それでも私たちは希望を持って苦労を乗り越えたいと欲します。ところが自分の力で作り上げた希望には同時に失望が伴っていることを私たちは知っています。私も神様を信じる前は希望をもって頑張っていましたが、希望が叶うと次の目標がないと不安になりました。人が作り上げた希望にはどこか失望がついて回っているのではないでしょうか?それでも頑張れる人もいます。しかし、最後にある問題、それは空しさと死の現実です。現代は若い人でさえ空しさの中に生きています。先が見えないことも希望の無いことですが、自分が一所懸命働いて行き着く所が見えてしまっても空しいものです。仕事や趣味なども人生の根源的な希望や生き甲斐を与えてくれない限り代用品でしかありません。

ユダヤ人は神に選ばれた民と旧約聖書では表現されています。彼らの父祖アブラハムを神は選び、祝福と恵みの希望を与え、彼らを導かれました。しかし、民は神に背を向け、代用の神々に従ってしまいました。当時世界征服を最初に果たしたアッシリア、そしてバビロニアの国に支配され、国が滅び行く時、神は絶望状態の民にエレミヤを通して語られました。それが、冒頭の言葉です。「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」と続けて言われました。人からではなく、自分の力ではなく、外(神様)から与えられる希望には命があります。失望と裏腹のものでなく、死をもって滅びることもない希望が本当の希望です。聖書は、その希望の光こそ生きておられるイエス・キリストであることを記します。

聖書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3)とあります。暗闇の中でしか希望の光は見えません。神を信じないで自分の希望に生きていた罪をイエス様が負って死んで下さったことを信じる時、苦難の中に光を見つけ、希望が生まれることを体験します。それを「救い」と言います。救いは、神の言葉を心で信じ、口で告白する所から始まり、希望によって苦難を限りあるものとし、世にあって本当の生き甲斐、神の愛と救いを伝える天職を私たちに与えてくれます。