2010年6月20日

「父親たちへ」 エフェソの信徒への手紙64

 「父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
教会の交わりの中で忘れてならないことは、キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であることです。パウロは、夫は妻の頭であり、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように妻を愛しなさいと勧めます。そして、それぞれ、夫は妻を自分のように愛し、妻は夫を敬うようにと諭します。(5:21-33)
そのような愛の相互関係に基づいて、子に対する父親の態度について語ります。「怒らせる」とは、子どもに対して口やかましく言うばかりであったり、横暴に振舞うことによって子どもを憤らせ反発させることです。一方的で横暴な父親はどれほど妻や家族に犠牲を強い、傷つけ、苦しめるかを私たちは知っています。また、父親自身が自分の価値観や善悪の判断を示さないでいることへの子どもの苛立ちであるとも解釈されます。使徒言行録22章でパウロは、ファリサイ派で議員、律法の教師ガマリエルから厳しい教育を受けたと証ししています。ガマリエルは議場で、キリスト者への取り扱いにつき、キリスト者の計画や行動が人間から出たものなら自滅し、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできないと忠告する冷静な教師でした(6:33-42)。パウロが自身の父との関係を語る場面は一つもありませんが、この戒めは、彼の体験から出たものかも知れません。コロサイ人への手紙3:21の「父親たち、子どもたちをいらだたせてはならない。いじけるといけないから。」という言葉にも彼の体験が根底にあるのではないでしょうか?パウロは若き日、ガマリエルから受けた厳しい教育と薫陶によって伝道に耐える人格を身につけたのでしょう。
「愚かな者としてではなく、賢い者として細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(5:15-20) 教会の交わりは世の中にありながら、自らは世のものではありません。「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」(ローマ14:13)とパウロが言うように、キリストにある交わりは、子育てにも似て、与えられた恵みを主の喜ばれるものとして用い、平和や互いの向上に役立つことを追い求める中に育てられていくものです。