2010年6月6日

 「神のユーモアと信仰」 マタイによる福音書17:24~27

 教会学校でこの6月は、4月から引き続き、「主の言葉を聞く(人を生かすイエスさまの言葉)」ということを学びます。イエス様の言葉は、旧約聖書で語られた神の言葉の完成という意味との捕らえ方があります。また、イエス様ご自身がその言葉と行動において示されたのは、「神の子、メシア」であることでした(26:63)。

イエス様の言葉は、私たちを主告白と聞き従う生活へと導きます。
色々辛いことや苦しいことが重なった時、最後には笑ってしまうしかないという結論に至った経験はないでしょうか?追い詰められて、どうしようもない時、答えの「こ」の字も出ない時が私たちの人生にはあります。しかし、イエス様は違っていました。
 ヨハネ8章では、イエス様に反発を覚える律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現行犯で捕まった女性を突き出し、イエス様の判断を仰ぎました。しかし、イエス様の目に重い罪に見えたのは女性よりも、イエス様の言葉尻を捕らえて訴えようとした宗教指導者たちでした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」実に、意表をついた答えでした。また、マタイ22章でファリサイ派の人々は、皇帝への税金について、イエス様を罠にかけようと、へりくだった言葉で近づきました。「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」とイエス様は彼らの悪意を見抜き、銀貨を出させ「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られました。引き続き食い下がるサドカイ派の人々に、イエス様は「復活」の実現を語られました。イエス様は反対者から言葉で追い詰められ、大変な緊張状態の中で返答を求められます。しかし、そのお答えは見事で、ユーモアさえ感じるものです。「シモン、あなたはどう思うか?」イエス様の答えは、彼を追い詰めるのではなく、「イエスは主である」との告白に導くためのものでした。信仰と生活は分けられることではなく、イエスを誰として生き、死ぬかということなのです。税金支払いに、イエス様は魚の口からコインという答えを出して下さいました。
 「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39) 「冗談じゃない。なぜ私が・・」そう思っても不思議ではない状況の中で、イエス様は祈られました。私たちは冗談ではない出来事に日々遭遇しながら生活しています。しかし、御心が成るようにとの祈りは、キリストにあって起こるもので、究極の人生の答えは現実の中には今は無いとの神様のユーモアある導きある祈りなのかも知れません。