2010年6月27日

  「洗礼を受ける」 使徒言行録8:26~40

本日はお二人のバプテスマ式を行います。聖霊降臨日(ペンテコステ)の後、初代教会は大きく成長し、信者も増えました。しかし、ステファノが殉教し、教会に対する大迫害が起こり、信徒は散らされていきます。エルサレム教会の指導者の一人であったフィリポもサマリアからガザに遣わされました。そこで出会ったのがエチオピアの宦官です。彼は、エジプト女王の宮廷役人で教会の歴史の中で最初の異邦人クリスチャンとなったアフリカ人でした。その信仰が受け継がれ、今日のお二人のバプテスマへと繋がりました。

家族の中でただ一人のクリスチャンである方も教会では多くおられます。配偶者や家族が協力的であるところや、内緒で礼拝に集わなければならない方、教会の印刷物を隠さなければならない方、何とか福音に触れてもらいたくてチラシをさりげなくテーブルの上に置く努力をする方など色々です。そして、そのことに悩んでいるクリスチャンは日本の教会に少なくはないのです。

しかし、救いは聖霊の働きによります。状況や背景はどうあれ、主の救いの業は聖霊によって始められ、導かれます。フィリポを伝道へと向かわせたのは彼の考えではなく主の天使でした。使徒パウロは“神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」”(1コリント12:3)と、救いが神主導であることを証ししました。家族の救いを願う人々には様々な立場があり、そこにも神のご計画があります。家族の中で信仰の初穂となった人々がバプテスマに導かれたように、私たちも互いに聖霊によって変えられ祝福に導かれる必要があります。

信仰も人の知恵によるのではなく、神の力によります(1コリント2:5)。宦官はユダヤの神を理性では信じていましたが、救い主と、救われるべき当事者が自分であることを悟ることはできませんでした。罪の自覚、罪からの救い、永遠の命がキリスト・イエスによってもたらされることを解き明かされた時、彼は自らの意思で水の乏しい所で水を見つけバプテスマを望みました。彼はもはやフィリポを必要とせず、喜びにあふれて旅を続けました。主にあって新生すること、それは、聖霊によって始まり、人の知恵によってではなく、神の力を頼りとして生きることです。