2010年5月30日

約束に立つ共同体」 第一コリント12:12~26

  教会には多様な人が集まり、様々な賜物や奉仕,働きがあります。それをはかり与えて下さるのは聖霊、キリスト、父なる神です。父と御子と聖霊は一致しておられますから教会の働きは一つなるお方に由来します(12:4‐6)。そして、それぞれの賜物は聖霊の現われであって、その多様性の中に秩序と一致があります 宗教改革の流れの中でプロテスタント教会は、信仰によって義とされることを聖書の中に発見し、まさにそれは新大陸の発見以上の精神の大陸発見のようなものでした。プロテスタント教会は万人祭司を唱えました。しかし、カトリック教会の礼典や習慣は依然として残されたままの教会もありました。一方、英国国教会の中で生まれたバプテストの群れは、教会は自覚的に信仰を告白し、バプテスマを受けた自主的な共同体であると考え、教職者さえも神の前に同じ人間ととらえ、教会のすべての業は神の前に平等であり、神の愛に応答する責任があると捉えました。

 信仰による一致を求めて: バプテストの教会は各個教会の自主独立を認めながら、しかし孤立するのではなく互いに理解し助け合う共同体として成長して行きました。また、教派としての教理を持たず、主の前に誰もが等しく、聖書の言葉を読み、解釈し、聖霊の導きを求めることを大切にしました。よく教会では牧師を中心に一致した教会形成を、とか皆が心を合わせて一致して、と言いますが、バプテストの教会では、牧師はその職分によって教会の体の一部として捉えます。牧師もその教会の業の一部であり、教会の約束から離れての働きはないのです。だからこそ、互いの賜物の違いを自覚し、主の前にへりくだり自らを絶対化する誘惑から、聖書の御言葉を通して守り合い、賜物の多様性を信仰によって豊かに一致させることを目指したのです。

 信仰による分かち合いを求めて:「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(12:25)バプテストに限らず、教派も多様であり、その信仰の強調点も様々です。しかし、一つの体である教会の頭はイエス様です。人間の体の全ての痛みは「頭」すなわち脳が感じているのだと言います。使徒パウロは、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる(10:13)と言います。イエス様が知られないような苦しみはなく、キリストがその痛みを感じられるのです。体の部分の多様性を認めながら信仰による一致、主の愛に応え、体を成していく業を分かち合って参りたいと願います。