2010年5月9日

母に現れる神の愛」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:9~12

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16という言葉は主なる神が私たちをかけがえのないものとして愛してくださったことを現す、聖書全体を通して示される神の御旨です。先週は、憲法記念日でした。沖縄の「ヌチドゥ宝の家」には子どもの服が残されています。それは、米軍上陸を受け、泣き止まぬ子を日本軍兵士が殺し、子どもの体がすり抜けて母の手に残った服だと言われています。子どもを犠牲にできる母はいません。しかし、戦争の狂気は母をさえ息子を戦争に差し出してしまう間違いを犯させます。平和憲法は人が守るべき決め事ではなく、人が平和憲法の言葉によって守られていくのだと言えます。

 ヘブライ人の信仰の父、アブラハムは主なる神より試みを受け、一人子イサクを捧げるよう命じられました。ヘブライ書によればアブラハムの信仰によってイサクの命は守られますが、もしそれが母サラであったらどうなっただろうと考えてしまいます。母の、子に対する愛は深く広く、継続する愛であると言えます。しかし、それは時間的、状況的な制約を受けると変わらざるを得ない人間の愛と言えます。人間の愛には限界があるのです。しかし、神の愛は人の母の愛に勝るものです。

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)聖書に現れる神は「父の神」と呼ばれ、特に旧約聖書では厳しく強い父性が表されています。カトリックでも紀元431年にはエフェソにてマリヤ様を聖人、神の子の母として公認し、マリア崇拝が広がって行きます。人々はどこまでも優しく包んでくれる神の姿をマリアの中に求めたのかも知れません。また、それはキリストを神とする教会の合理性から出たものでもありました。しかし、大切なことは、神が父か母のどちらかということではなく、私たちを創造し、恵みを与え、罪から救ってくださる真の愛の神であるということです。時間や状況という制約を受けず「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」イザヤ49:15と言われる永遠の愛です。その愛が母性には印されていると思うのです。