2010年5月2日

生きて働く信仰」 ローマの信徒への手紙6:1~4

 
使徒パウロはイエス様による救いの法則の大転換を
 「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」3:28)という言葉で表しました。しかし、ローマの信徒をはじめ、初代教会の兄弟姉妹の中に「恵みによって救われたのだからもっと罪を犯しても良いし、罪を犯せば犯すほど恵みが増し加わる」と勘違いした人々が多く現れたのです。パウロはその誤解を解くために6章から8章までの長い紙面を使い、手間隙かけて真の信仰のスタートラインを引いたのです。

 救いの確信は、人の行いにではなく、イエス・キリストの死にあずかるバプテスマにあります。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」(6:4) 人間、物事がうまく行っている時は自信を持ち、何ものにも頼らず生きていけると勘違いします。パウロの言う罪とは、人間中心の世界観、自分中心の価値観に支配されて生きることを言います。人は同時に罪に慣れ親しんでおり、神様を信じただけでは実生活で聖なる生活、正しい生き方はできず、完全ではないことを思い知ります。そこで、パウロの言う新しい生き方は倫理道徳の目標、スローガンに留まります。「人間の弱さ」それが公認の言い訳となります。しかし、キリストは人間の弱さゆえの苦しみと戦い抜き、その従順によって完全な者(信仰のゴールに達した者)となられました。(フィリピ2:6-9、ヘブライ5:7-10) キリストにある信仰告白と洗礼は、完全な罪の赦しのしるし、救いの確信の源なのです。キリストを通して人の弱さの向こうに恵みの救いの希望を見ます。

 心を一新しなければ、人は行いによって変わることはできません。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2) 「行いの法則」に囚われると人は神様を信じても、救われる前の習慣(人間中心の世界観)の中に生き続けます。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」(8:1) キリストによる救いの世界観はあいまいではありません。それは、キリストによっしかではなくて、キリストにあるものは一人も残らず「万事が益となるように共に働く」との神の約束です。