2010年4月25日

「教会のかたち」エフェソの信徒への手紙4:9~10


「この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。そして、・・・」

私たちの教会の礼拝は、招詞から始まり、祝祷で終わります。日常の生活から、共に主なる神との交わりに招かれ、その神の祝福をもって日常の生活に派遣されていく営みです。「お帰りなさい」との主の招きから始まり、「行ってらっしゃい」との主の言葉から全てが始まります。信仰とはすべてがこの世とはあべこべなのです。

人にとってセルフイメージ(自己像)、そして自尊心は大切だと言われます。しかし、それよりも大切なものはその価値観を支えるもの、もたらすものの方が重要です。創世記は、「神は御自分にかたどって人を創造された。」(1:27)と語り、お造りになったすべてのものをご覧になり「見よ、それは極めて良かった。」(1:31)そして、夕べがあり、朝があったと語ります。その価値観に立てればどれほど私たちは幸いでしょう。自分の行いでもなく、人の評価でもなく、神が「極めて良い」と語られるその言葉を信じその主を告白することが「私」や「隣人」という存在を支えるということです。教会の礼拝は、私たちが日常から神による真の自分のイメージに戻る場所です。しかし、私たちの罪がそれを完全なものとすることができないのです。

主イエスは、その価値観に立てない不完全な私たちの罪を贖って(命の代価を払い、買い取って)下さいました。パウロは証しします。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)主なる神の御子自身が代価とならなければ誰がそれを買い取るに値するものとなれるでしょう。(マタイ16:26、1コリント6:20) 教会はその神と、神が遣わされたイエス・キリストにある価値観を自発的自主的に告白する共同体です。そこから、私たちの生かされていく力が満ち溢れるのです。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者・・・とされたのです。」(エフェソ4:12) 主イエス・キリストを告白する信仰が従うことを恥とせず、仕えることを隷属とは言わせません。教会は信徒の努力や頑張りで満たされて行ってはならず、キリストの満ち満ちた豊かさの中から恵みの上にさらに恵みを受けたものとして(ヨハネ1:16)成長させられ、日常に派遣されて行くものだと思うのです。