2010年4月11日

暗い望み、明るい望み」 コリント人への手紙一 1:18~25

 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(15:13、14)

 使徒パウロは、ユダヤ議会の信任を受けてクリスチャン迫害に燃えた人でした。しかし、彼は復活のイエスの臨在に触れ、目撃した弟子たち以上に衝撃を受け伝道者に変えられました。(使徒26:9-18) ある意味、神様は挫折を経験した人しか主の証人としてお使いになれないのではとさえ私は思います。クリスチャンにとって復活のイエス様は、自分の罪の裁きがイエス様において完全に成されたことを確信する基準点となります。キリストはただ一度、ご自身を罪の贖いの犠牲として捧げ、贖いを成し遂げられたと聖書は語ります。(ヘブル9:12) パウロは「福音を恥としない」と申しました。アメリカの大学で私は、何人かのキリストを見たと言って回心し、聖書を学ぶ若者達と出会いました。彼らは信仰とは程遠い麻薬やドラッグに溺れた生活をしていた人たちでした。しかし、何の前触れもなく、彼らの前に主が立たれたと言うのです。そして、彼らは瞬時に変えられ伝道への道に進んだのです。人が変わるためには様々な方法があり、個性も関係して来ると思います。しかし、イエス様が「あなたがたは新たに生まれねばならない」と語り、「風は思いのままに吹く。」(ヨハネ3:7)と語られたように回心は聖霊が主導されるのです。

 「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(15:19)

ルカ福音書24章によれば、復活のイエス様は使徒たちに現れ、その日弟子二人に現れました。二人はイエス様と気づかず暗い顔をして言いました。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」 エマオへの道、彼らにとってそれは失望の道でした。キリストに望みを置いた人々は皆、キリストご自身ではなく、イエス様の行いと言葉に魅了されました。ルカは復活の「イエス御自身が」近づき(14節)、彼らの真ん中に立ち(36節)語られたと言います。主と主の復活とを信じる者は、キリストに望みをかけるだけでなく望みが実現したことと、実現している復活の命に生きる必要があり、神の力を体験する必要があるのです。