2010年3月28日

 「見捨てられた神の子」 マタイによる福音書27:32~44

先日17年半にわたり足利事件の犯人とされた菅家利和さんの再審判決公判が行われ、無罪が確定しました。冤罪に苦しみ、無実を訴えての戦いでした。自白へと誘導され、罪を認め刑に服した菅家さんの苦しみ、悩みは想像を絶します。事件の被害者家族の新たな苦悩と冤罪再発防止への闘いが始まっています。

十字架は罪の正しい裁きをもたらしました。

私たち人間の最大の矛盾と悩みは、「正しく裁くことができない。」ということです。それは私たちが不完全で正しいものではないからです。今から2000年前、確たる罪状もなく罪に定められ裁きを受けた方がいます。パウロはこの方について「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(2コリ5:21)と語り、この方は心の中の深く見えない「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ローマ4:25)と証言しました。それが、み子イエス・キリストです。神は、ひとり子イエスの冤罪を2000年の間、見過ごしておられます。主イエスは、過越祭の前、受難の時が近づいたことを悟り、「世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜かれ(ヨハネ13:1)た、それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハネ3:16)であったと語ります。神ご自身が想像を超えた痛みをもってみ子を罪に定められたのです。ある神学者は主イエスの受難による贖いを「神は神自身を裁かれた」とさえ表現しました。

十字架の道は赦しに生きる道。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)子どもを守る時、日本のお母さんは覆いかぶさるように子を守り、欧米のお母さんは子どもの前に立ちはだかり子を守ると言います。聖書は「あなたを見守る方あなたを覆う陰」(詩篇121:5)、「主は、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」(エレミヤ31:10)「翼を広げた鳥のように・・守り、助け、かばって救われる」(イザヤ31:5)と語ります。十字架の後ろからイエス様を見る時、神がわが子を守るのではなく、わが子を見捨て、私たちを罪の裁きから守ってくださったことを知ります。イエス様はまた、私が罪ゆえに受けるはずの人のあざけり、嘲笑の前に立ちはだかり、赦しに生きる者として下さいました。十字架は赦しに生きる道、感謝の始まりです。