2010年3月21日

 「彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いた」詩篇 34:5

 私たちは主を仰ぎ見る時に輝きます。なぜなら神様は私たちの造り主であり、私たちを私たちらしく生かす事が出来るからです。主を仰ぎ見るとは,信じて神とともに生きる事です。

 「主とともに生きる」と「主のために生きる」とは少し違います。主のために礼拝に行き、主のために伝道し、主のために奉仕をし…これでは息が詰まっていきます。しかし、私たちの神様が求めておられる事は主とともに生きることです。復活したイエス様は裏切ったペテロに3回問われます-−−「あなたは私を愛しますか?」と。なにか犠牲をささげなさい、しっかりしなさい、頑張りなさいとは言われませんでした。主とともに生きる事は難しい事ではありません。子供にも出来る事です。日々神様により頼み生きていくのです。出かける時も、働く時も、眠りにつく時も主に祈り感謝します。

 私たちが神様とともに喜びに溢れて生きるためには、二つ負う物があります。マタイ11:28〜30によると、それは「くびき」と「十字架」です。この言葉を聞くと自由からかけ離れていると思うかもしれませんが、くびきと十字架が私たちを神とともに歩ませ、私たちを輝かせるのです。私たちは疲れや重荷と感じるものが沢山ありますが、イエスは言われます。疲れと重荷を感じる者は「私の所にきなさい」というのです。そして、「私のくびきを負う必要がある。」と言われます。くびきとは二頭の牛が重荷を分け合い楽に仕事ができるようにするための道具なのです。一頭では支えきれない重荷を二頭で分け合い心地よく仕事ができるための物です。イエス様が私たちに言われる「くびき」は「かせ」ではなく、主が私たちの重荷を負って下さることを覚えたいと思います。

 そして、もう一つ私たちが負うべき物があります。マタイ16:24~26を見ると、それは「自分の十字架を負う」ことです。自分の十字架とは自己中心を放棄していく生き方です。十字架を負うことは犠牲を伴います。しかし、「それは重荷にはならない」のです。私たちが主と「くびき」を共にしている限り、負いきれない十字架はありません。忍耐が必要な時もあるかも知れませんが、無駄にはなりません。屈辱を感じる時があるかもしれませんが、次第にキリストに似せられ、心に平安が増し加えられていくでしょう。