2010年3月7日

 「わが罪のために」 マタイによる福音書5:43~48

 自分にとって価値のないもの、見返りがないもの、得にならないものを私たちは本当に愛することができるでしょうか?愛し続けることができるでしょうか?イースターの季節、私たちがイエス様の受難と復活の出来事から知るのは驚くべき神の愛が十字架に示されたという事実です。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 このご命令を私たちが実践する時、自分の愛の限界を知らされます。そして、自分の愛が結局は自分に還ってくることを求める自己中心の愛であることが明らかにされます。その愛を罪の愛とさえ表現した人もいます。私たちの世界はどれ程この人間愛で傷つき壊れていることでしょうか。一方、敵や迫害者は自分にとって何の価値もありません。むしろ被害をこうむることが常です。イエス様はそんな他者に注ぐ愛こそ神が私たちに注いで下さっている愛、無償(アガペー)の愛であると言っておられるのです。主のご命令は神がどれ程私たちを無条件に徹底的に愛してくださっているかを悟らせ、その愛を伝えるためのものだと私には思えます。ルカ書(6:27)では、憎むものに親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬をも向けなさい、とさえ言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから」(5:43-45)と神様が全ての人を底なしに愛する神であることを私たちに示して下さいました。

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(5:6-8)とパウロは、ローマの信徒に宛てて自分の救いの経験も重ねて語り、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた。」と言いました。信仰によって救われたパウロが、神の無償の愛によって包まれ変えられ、苦難の中に希望を持つ者に変えられて行きました。私たちの罪のために主は死んでくださり、新しい者に作り変えて下さいました。