2010年1月17日

 「私の選択」 エフェソの信徒への手紙4:25~27 

 エフェソの信徒に宛てた手紙は、61年頃使徒パウロがローマの投獄時代に書いたものと推測されています。(3:1) パウロは、その内容から同時期コロサイの教会にも手紙を送っているようです。その主題は、キリストにある教会の一致です。その目的は、神様の救いのご計画のもと、和解と平和の使者となることです。(6:20、2コリント5:20)その群れは愛に根ざして真理を語り、成長していく群れです。

 人間の感情の中で怒りほどコントロールが難しく、人間関係を粗野にしてしまうものはありません。私は昔、父親に恨みとさえ言える怒りを持っていました。大酒飲みで自己中心で母に辛くあたる父を許せないでいたのです。特に思春期は反抗し、私を一方的に評価する父に逆らったものです。しかし、私も大人になって来ると、反面教師だった父と、自分がやっていることがあまり変らないことに気が付いてきたのです。感情の表し方や、出来事への反応の仕方が父に似てきていたのです。自分は父のような人間ではないと否定しても、反応ですから正直に出てしまうのです。そこには、自分ではどうすることもできない負の連鎖がありました。また、思い通りに行かず、悪い思いをいだいたり悪いことをしてしまった時、自然に父のせいにしたり傷ついた経験のせいにしていました。そして、思ったことは、自分には自分の罪が明らかに存在し、その罪が清められなければ自分は救われないということでした。それは、聖書に出会って知った新しい知識と知恵でした。

 怒りには正しい怒りと間違った怒りがあります。正しい怒りとは神の怒りです。パウロは「怒りを発する神は正しくないのか。決してそうではない。」(ローマ3:5)と断言します。人が罪により神から離れ滅びていくことに神は怒りを発せられます。神の怒りは愛に根ざしています。しかし、人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブ1:19-20)人は神から離れ生まれながら神の怒りを受けるべき者でしたが憐れみ豊かな神はその愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストと共に復活させて下さいました。それは、恵みによります。(エフェソ2:3-8)

 怒りという感情が無くなることはありません。人間の憤りは自分を正当化する一方で、不完全な私たちに不安をも与えています。神の正当な怒りは私たちに向けられることなく、キリストに向けられ、キリストによって神の怒りから私たちは救われたのです。私は怒りを神に任せることを選び、父と和解しました。自分の傷ついた感情や経験と向き合うことは難しいことですが、そこに救いへの糸口があります。