2010年1月10日

 「イエスに根ざし」 コロサイ人への手紙2:6、7

 私は、バプテスマ(浸礼)を受けた時、世界が変わって見えたことを思い出します。今までと同じ風景がまったく違ったものに見え、生きることが嬉しくなりました。しかしその後、「良いクリスチャンにならなければならない病」にかかり、苦しい時代が長く続きました。信仰は自然に育つものだと思っていましたが(もちろんそのような部分もありますが)、みことばを正しく受け入れて信じて従うことによって伸び伸びと成長することが分かって来ました。

 使徒パウロの神に対する感謝と喜びは、コロサイの信徒が福音を聞いて真に悟った日から、実を結んで成長していることでした。(1:6) 1921年、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」を念頭に「真の自由人」を育てる理想の人間教育の場として自由学園を創設した羽仁もと子さんは、「よく教育するとは、よく生活させること。」と、信仰に立つ生活の大事さを説きました。その土台となる「真理」とは御子イエスのことです。「御子は、見えない神の姿。」(1:15)であり、「十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって御自分と和解させられた。」(1:20)方です。キリストが十字架に死んでくださったことこそ造り主である神に私たちが赦されている証拠で、根ざす場所です。

 私たちの体が、日々食べているものによって作られていくように、私たちの精神も日々何を信じ、見聞きしているかによって作られていきます。近年、食材の大切さについて感心が高まっているように、霊の糧についても考える必要があります。私たちは、日ごろ目に見える部分、容姿や才能、社会的な立場などで人を判断してしまうことがありますが、大切なのはその人を支えている見えない部分、精神の部分です。言うまでもなく、草花や樹木を支えているのは根です。同様に私たちの心の根がどこに生え、何を養分としているかが、その人の見える部分である生活を形作っていきます。パウロは言います。「キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(2:6-7) ディボーションセミナーで野田秀(しげる)先生はそれを、「みことばと祈りがセットになったもの」「朝食(Breakfast)と呼吸(Breathing)が大切」「口の中であめ玉を転がすようにじっくりと、時間をかけて味わうこと」と言います。イエス様に根ざすことも、ディボーションを続けることも主の憐れみだと思います。主との交わりは、礼拝とともに私たちの命と生活を守るものです。