2009年12月20日

「神の家族への招き」 マタイによる福音書2:1~14

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。・・この世の生活でキリストに望みをかけているだけとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(1コリント15:14、19)」クリスマスは神の子、救い主イエス・キリストのお誕生をお祝いする喜びの時です。何故喜びかと言うと、イエス様は他でもないその知らせを聞くあなたのためにお生まれになったからです。

 「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ローマ1:2-4)」キリストの誕生について記した福音書はマタイとルカのみで、マルコとヨハネをはじめ、他の書簡にも見られないものです。しかし、共通するイエス理解は「神の子」で罪からの救い主であるということです。またその証言のために福音書は書かれたと言っても過言ではありません。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とのイザヤの預言(7:14)は目に見えぬ神が人となり私たちといつも共にくださることのしるしです。

 人は、自分の弱さを隠して生きています。ヘロデの祖父アンティパル一世、父のアンティパル二世そしてヘロデ自身も、時の権力者に取り入って立身出世を果たした人でした。その能力、地位、名誉とは裏腹に彼は不安と不信に苛まれる人で、猜疑心から身内を手にかけるほど悩みに満ちた人だったのです。そのような背景の中、ユダヤ人の王の誕生が告げられ、ヘロデは王位失墜を恐れ、イエスの誕生予告がなされたベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を殺させてしまったのです。自分の弱さを認めないエネルギーの何とすさまじいことでしょう。しかし、パウロは違いました「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』。と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント)」と、マリアやヨセフがそうであったように、神の言葉と約束とを信じて生きたのです。

 「言(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とヨハネは言い、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)」と、主イエスを通して開かれた神の家族への招きに応えること、それこそが神の喜びです。