2009年12月6日

 「平和の君イエス」 ミカ書5:1~26

 新共同訳新約聖書の中に「平安」という言葉は一つもありません。それは、物理的、精神的、霊的にも平安は神との「平和」に深く関わっているとの理解に立っているからだと思われます。そして、その関係は神による救いの計画、ダビデの子、イエス・キリストにより与えられると聖書は証言します。キリストの平和は・・、

 状況を超えて:「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7) 「思い煩い」はわたしたちを神の平和から遠ざけます。神は私たちが行き詰った所におられ、ご聖霊は私たちを守ってくださる方です。大胆に神に近づき、信じて、どんなことでも神に打ち明ける勇気が必要です。

 理解を超えて:「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)。この世を支配しておられる神の愛は私たちの理解を超えて平和の関係をもたらします。

 時を越えて:イエス様は苦しみを受ける前夜、弟子たちに約束されました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)そして、ご聖霊を与えると念を押されました(ヨハネ16:7)。その予告通りイエス様の復活の後、弟子たちの上に聖霊が下り、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束して下さいました。一日24時間、365日、たとえ私たちが死を迎えようとも神との平和は損なわれることも揺るぐこともありません。

 罪の赦しとともに:「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14) 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(1ペトロ1:8-9)主イエスにある平和は赦され、赦し合うことによってもたらされる世の希望です。平和の君イエス様のご降誕を覚えます。