2009年11月15日

「小さな罪から、大きな罪へ」 サムエル記上 11章

 私達の犯す小さな罪は放置する時に大きな罪に変わり、消極的な信仰生活もまた積極的に神から離れる行動へと変わってしまう。11章1節には「ダビデはエルサレムにとどまっていた」とある。いつも民の先頭に立って行動していた彼とは少し違う状況がここにある。戦いに慣れてしまったのか、それとも自分が行かなくても勝てる見込みがあったのか、その両方か理由はわからないが、確かなのは彼が油断をしていた事である。

 2節に「夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり・・・」とある。生活のリズムが崩れているのがわかる。大きな罪を犯しているわけではないが、霊的にも身体的にも良い状態とはいえない。私たちはこのような状況に注意を払うべきである。良くもなく、悪くもなく、ただ何となく神から離れている状況が、時として私達を積極的な罪へと走らせ、取り返しのつかない罪を犯させる。サタンの攻撃は実に巧妙である。私たちはよく「攻撃」という言葉を使うが、聖書は「策略」と言っている。策略は、その存在に気付きにくく、罠にはまったはまったあとではめられたと気付く事が多い。その攻撃の恐ろしいところは、実際攻撃されていることに気付かない事である。この時点でのダビデは、実際罪を犯していないし、誰からもとがめられるようなことはしていない。しかしサタンは着々とダビデを罠に引き込んでいる。

 「2節の後半~5節」では、少しの怠慢が油断を起こさせ、肉の欲が湧き、欲が成長し、行動に移ってしまった。ダビデはあっと言う間に姦淫の罪を犯してしまう。私たちも様々なサタンの霊的な攻撃を受けている。人に対する小さな苦い根が、批判的な心を生み出し、批判が裁きに変わり、大勢を巻き込む争いとなることもある。また、小さな心配が、心を疲れさせ、神様に対する信仰を揺るがし、疑いに変わり、信仰を捨てるところまでいく。私たちはあらゆる状況におかれるときに、それは神からのものか、それともサタンからのものかを見分ける必要がある。見分け方は単純で、それらの事柄が御霊に属すものか、それとも違うものかを吟味すればいい(ガラテヤ5:22~23)。

 「6~8節」でダビデはバテシェバの夫であるウリヤを戦場から呼び寄せる。これは家に帰らせ妻と寝させ、自分の行った罪をうやむやにしようとしたのである。しかしウリヤは酔っても帰らなかった。

 「15節」では姦淫の罪に加え、殺人の罪も犯してしまう。ダビデは消極的な罪から、欲望に引き寄せられ、姦淫の罪を犯し、人を殺してしまった。恐ろしいことである。途中からサタンに使われていたとも言えるだろう。「ピリピ3:12〜16」の様に、私たちは今いる所を基準として、ひたむきに神を求めるものでありたい。信仰の成長がなければ、後退していることと同じである。また、私たちの信仰の成長は永遠であることも覚えたい。