2009年11月8日

 「子どもと成長」 ルカによる福音書2:39〜52

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ルカ18:16

 バリアフリー(障害者が社会生活していく上での“障壁”を除くという意味で1974年国連障害者生活環境専門家会議から使用されるようになった言葉)がようやく色々な現場で意識されるようになってきました。もともと建築用語として使われていた言葉は、社会的、制度的、心理的な障壁についても意識されるようになって来ました。イエス様の時代、障害者は生産性や効率性とは無縁のものでした。子どももまた社会では弱さの象徴、弱く役にたたない存在、一方的に守られ恩恵を受けるだけでお返しもできないと思われてしまう存在でした。しかし、イエス様はそのような者こそ神の国の住人にふさわしいと語られます。福音には、私たちの内面にある差別や偏見、間違った競争や比較、誤解した自分のプライドや自己イメージといったバリアーを超え、信じる者すべてに救いをもたらし、人を変えていく力があります。

 「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」イエス様の父ヨセフと母マリアは主の言葉の前にへりくだる夫婦であり、律法を尊守することが家庭の土台となっていました。イエス様の人格はその両親の豊かな人間性とともに愛と教えと訓練によって築かれたものだと言えます。ヘブライ書では「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました(5:8)」と、イエス様は私たちと同じように従順を重ねて成長を遂げられたのです。イエス様は両親と周りの人たちに@「大切な存在であることを教えられ」A「安心感を与えられ」B「愛されていることをしっかり伝えられ」C「具体的な生活の仕方をしつけられ」D「神様のことを教えられ、子どもの霊的必要を満たされ」て成長されたのだと思われます。

 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 12歳(ユダヤの少年は12歳から準備をし13歳で成人とされる)で都に上り迷子になったと思われたイエス様は、既に霊的大人として成長しておられました。それはイエス様の優越性を示すことではなく、イエス様を通して霊的成人とは霊の父である神の場所にいつも自分を置いて生きていくことを示します。私たち大人も父なる神の前に子どもとして立ち、知恵を与えられて成長いく者となりたいものです。