2009年11月1日

 「100−1=0」 エゼキエル書34:11〜16

 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」 羊にとって安心なところは、飼い主の目の届くところです。それは人間も同じで、幼子は親のまなざしの中で安心して遊び育ちます。でも、そんなことは分かっていても迷い出てしまうのが私たちです。私たちは真の牧者に見つけられ、守られる必要があります。イスラエルの民は神から与えられた戒めによって群れ、すなわち神の家族を形作っていくはずでした。しかし、戒めは祝福とならず呪いとなり彼らは散らされてしまいた。ルカによる福音書15章に「迷い出た一匹の羊」のたとえがあります。羊飼いは100匹の中の1匹を見失います。それは、羊の過失によるのでしょうか、それとも羊飼いの不注意によって起こったことでしょうか?イエス様のたとえは「無くした銀貨」に続き、放蕩息子のたとえに及びます。そこで語られる大切なことは、原因追求ではなく、神は無くしたものを必死に探す方であり、見つけた時に大喜びされる方だということです。100-1=99ではありません。その一つの存在がなければ神にとってそれは群れでも家族でも無いのです。

 「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」 羊飼いの実力は、羊たちが広い野原で豊かな牧草にありついている時ではなく、羊たちが危機と向き合った時に現れます。そして、盗人が来た時、命を捨てて羊を守ります(ヨハネ10:11)。はぐれた羊は見つけられ、養われる必要があります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(1ペトロ2:25)

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16) 神によって創造された今を生きる私たち全てが神の愛と救いの対象です。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。」(イザヤ65:17) 私たちの信仰と希望とは神にかかっており、はかなく見える私たちの命も神の変わらぬ生きた言葉によって新たに生まれることができるのです。(1ペトロ2:23-25)