2009年10月11日

 「幸いな人」 詩篇1:1〜3

 詩篇はイスラエル人にとって捕囚の苦しい時代と解放の時にも、イエス様が十字架の死に直面され、パウロが獄中にあった時にも歌われ励ましを与えた讃美歌集です。第一編は、その前文であり詩篇全体を貫く「幸い」について歌っています。

 「主の教えを愛する」ことは、原語の意味で言えば、投げられたものが落ちていくまでの軌跡を目で追い続けることを言います。「朱に交われば赤くなる」といいますが、人は環境に支配されやく、視線がずれやすいものです。神様は悪の誘惑に対して黙って手をこまねいておられる方ではありません。C.S.ルイスは「神は私たちが喜びの中にいる時には小声でささやかれるが、苦しみの中にいる時には大声で叫ばれる。」と言いました。「幸いな人」は、ただ誘惑に乗らないというだけでなく、神様から与えられた日々教えを口ずさんで生きる人のことを言います。

 「幸いな人」は、流れのほとりに植えられた木。その流れは自然にできた川の流れではなく、従順と犠牲によって作られた命に至る水路を意味します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(ピリピ2:6)」また、水路のほとりにある木も、自然に種から生えた木ではなく移植された木です。パウロはどんな罪人もキリストにある慈しみを選んで生きるならその木に接木されると約束しています。(ローマ11:21)

 「ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。」神と神の言葉とを信じて歩む人に主は約束されます。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:29)」目に見えない神様が投げてくださった言葉を自分の生活に照らし合わせて目で追っていく時、神様は知らぬ間に栄えと誉れとを私たちに与えて下さいます。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:18)」主にあって幸いな人として歩みたいと願います。