2009年10月4日

 「立ち上がって」 使徒言行録 3:1〜10

 イエス様は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:34)」と語られました。誤解しかねない言葉ですが、真意は私たちの人間関係の中にイエス様を受け入れるということは結果的に私たち自身が自分たちのエゴと向き合うことになるのだということをイエス様は問うておられるのです。

 イエス様の「神の国」運動、福音伝道の特徴は、中央都市からでなく地方周辺の町や村から、高い地位や上流者からでなく罪人や病者・障害を持った人々から言葉に伴う業を通して始められました。イエス様ご自身「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と語られました。

 神殿に生まれながら足の不自由な男が運ばれて来たとあります。その障害のために彼は人格も存在資格も与えられず、共に生きるものとして認められていませんでした。先日、「障害」者と教会委員会に出席した時、経済学者で障害学会会員でもある川越敏司先生の講演を聴く機会が与えられました。国連では09年、障害者の権利条約が発効され、日本は賛同こそすれ憲法改正には至っていないことを知りました。「障害」は生まれついての問題と言うより、罪人である人間によって付け加えられたバリアーによって生きていく権利が疎外されている人という捉え方があることにも気付かされました。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペトロが持っているものは神より恵みとして与えられたキリストへの信仰です。「立ち上がる」というこの言葉には、目を覚ます、よみがえるという意味もあります。社会に存在する障害を私たちのエゴで捉える時社会は生きたものとはなりません。しかし、教会がまず障害を神の国の到来のさきがけと捉える時、それは剣となり試練となりますが、教会を生きたものとし、救いの意味を拡大させていくと思います。主なる神とその救いとは障害のある人にもそうでない人にも本当に必要なものなのです。