2009年9月27日

 「試練の中で」 第Iペテロ1:3〜7

 「第Iペテロ 1:3〜7」は信仰生活には試練があると、私たちに前もってそのことを語っています。神様を信じてクリスチャンになったら、悩みや苦しみが無くなるのではありません。信仰には戦いがあり苦しみがあります。しかし、神様は脱出の道をあらかじめ用意されています。それは、試練から逃げることではなく、試練を乗り越える力を与えてくださるということです。多くの試練を通して私たちの信仰は成長していきます。私達は自分で努力して成長し、信仰の力を得ようとするかもしれませんが、信仰は人の手で成長するのではなく、神様のお取り扱いによります。

 「さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのです。(6節)」とあります。試練を受けている時、それは喜ばしい物ではありません。苦しくて死んでしまいそうになるかも知れません。現在任されていることを投げ出したくなったり、こんな事なら神様を信じなければ良かったと思うことすらあるでしょう。しかし、試練は私達を殺すためにあるのではなく、生かすためにあるのです。もし試練がなくすべてが順調で、すべてが与えられたなら、私たちは神様を求め続けられるでしょうか。私達は神様抜きの滅びの道を行くよりも、試練の中で神様を求める信仰を与えられる方が、永遠の命に生きることができるのです。試練が与えられるのは、神様の臨在と恵みから出て行かないようにと、神様が私たちを導いていてくださっている証拠です。苦しみがあっても罪が赦され、神様と生きる道こそが平安です。

 7節には「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって・・・」とあります。信仰は精錬されるとあります。私達の信仰は精錬される必要があるのです。試練を通して純粋にされていきます。ある人は瞬く間に成長していきます。また、ある人は何年も同じことを繰り返し続け、成長が遅いことがあります。違いは何でしょうか。それはその人が一つ一つの試練から学んでいるかどうかによります。

 クリスチャンになっても私達はすぐに純粋な信仰を持つのではありません。不純物だらけなのです。伝道の成功のため、教会の成長のため、信仰の成長のためと祈りますが、それはいったい誰のためでしょうか。「全ては主の栄光のために」とは言うものの、結局のところ、全部自分のためであることがあります。

 試練を与えるのは神様です。神様が私たちに試練を与えるのならば、神様が責任を持って最後まで導いてくださいます。私達は神様から忍耐を与えられて、イエス様のように成長していきます。私達の弱さを神様は知ってくださっています(ヤコブ1:2〜4)。神様は無理な注文はされません。試練を乗り越える新たな力を与えられていきます。私たちは神様の力強い導きに期待する者でありたいと思います。